がゴロゴロして、座敷の畳がザクザク砂で汚れていた。
昼間の空家《あきや》は淋しい、薄い人の影があそこにもこゝにもたゝずんでいるようで、寒さがビンビンこたえて来る。
どこへ行こうかしら、弐円ではどうにもならないし、はばかり[#「はばかり」に傍点]から出て来ると、荒れた縁側のそばへ、狐のような目のクリクリした犬がじっと私を見ている。
「何でもないんだよ、何でもありゃしないんだよ。」
言いきかせるつもりで、私は屹とつったっていた。
どうしようかなあ……。
夜。
新宿の旭町の木賃宿へ泊る。
石垣の下の、雪どけで、道がこねこねしている通りの、旅人宿に、一泊参拾銭で私は泥のような体を横たえた。
三畳の部屋に、豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしない部屋の中に、明日の日の約束されてない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いた。
[#ここから2字下げ]
みんな嘘っぱちばかりの世界だ!
甲州行きの終列車が頭の上を突きさした
百貨店《マーケット》の屋上のように寥々とした
全生活を振り捨てゝ私は
木賃宿の蒲団に静脈を延ばした
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめて
真夜中煤けた障子をいっぱい明けると
こんなところにも月がおどけていた。
みんなさよなら[#「さよなら」に傍点]
私は歪んだサイコロ[#「サイコロ」に傍点]になって逆もどり
こゝは木賃宿街の屋根裏
私は堆積された信念をつかんで
ビョウ ビョウと風に吹かれていた。
[#ここで字下げ終わり]
夜中になっても人がドタドタ出はいりしている。
「済みませんが……。」
ガクガクの障子をあけて、銀杏返えしに結った女が、そう言ったきり、薄い私の蒲団にもぐり込んで来た。
ドタドタと大きい足音がすると、帽子もかぶらないうす汚れた男が細めに障子をあけて声をかけた。
「オイ! おきろ!」
女が、一言二言つぶやきながら、廊下へ出ると、パチンと頬を打つ音が続けざまに聞えて、無意味な、汚水のような寞々とした静かさが続いて、女の乱して行った空気が、仲々しずまらなかった。
「今まで何をしていたのだ、原籍は、どこへ行く、年は、両親は……。」
あのうす汚れた男が、鉛筆をなめ乍ら、私の枕元に立っている。
どうにでもなれッ。
「あの女と知りあいか?」
「え、三分間ばかり……。」
クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがゝりは持たなかっただろう。刑事が去ると、私は伸々と手足を延ばして枕の下に入れてある財布をさわってみた。壱円六拾五銭残っている。
日がビュウビュウ風に吹かれているのが、歪んだ高い窓から見える。ピエロは高いところから飛びおりる事は上手だが、上って見せる芸当は容易じゃない。
だが何とかなるだろう。――。
三月×日
青梅街道の入口の飯屋へ行く。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が馳け込むように這入って来て、
「姉さん! 拾銭で何か食わしてくんないかな、拾銭玉一ツきりしかないんだよ。」
大声で正直に立っていると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいゝですか。」
労働者は急にニコニコしてバンコ[#「バンコ」に傍点]へ腰かけた。そして大きな丼の飯と、葱のはいった肉豆腐と汁碗を前にして、天真にたべている。
一食拾銭よりと書いてあるのに、十銭玉一ツきりの此労働者は、スナオ[#「スナオ」に傍点]に正直に、入口から念を押している。
涙ぐましい気持ちだった。
御飯の盛りが私のヨリ多いような気がしたけれど、あれで足りるかしら、足りなかったら出してあげてもいゝけど、でも労働者はいたって朗らかだった。
私の前には、御飯にごった煮にお新香、まことに貧しき山海の珍味。合計拾弐銭也、のれんを出ると――どうもありがとう――お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつをかわして、拾弐銭、どんづまりの世界は、光明と紙ひとえで、真に朗らかだ。
だが、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、拾銭玉一ツで、失望、どんぞこ、堕落との紙ひとえだ――。
お母さんだけでも東京へ来てくれゝば、何とか働きようもあるんだけど……沈むだけ沈んだ私は難破船、飛沫がかゝるどころではない、ザンブザンブ潮水を呑んで、結局私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。
あの女は卅すぎていたかも知れない。私が男だったら、あのまゝ一直線にあの夜に溺れて今朝はあの女と、もう死ぬ話でもしていたか知れない。荷物を宿にあずけて、神田の職業紹介所に行く。
何と云う冷たいこうまんちきな女だろう、私は、どこへ行っても砂っ原のように亮々とした思いがするので、厭になってしまった。
お前さんに使ってもらうんじゃないんだよ。
おたんちん!
馬鹿野郎!
ひょっとこ!
そうくり返え
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