兄さんの家でもらった、デベラ[#「デベラ」に傍点]の青籠と風呂敷包みをかゝえて、ピヨピヨした板を渡って、船へ乗った。
「気をつけてのう……。」
「えゝ! 兄さんもうストライキはすんだんですか。」
「○○が仲へ入って三割かた職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわ[#「かなわ」に傍点]ないよ。」
 男は寝ぶそくな目をシパシパさせて、波止場へ降りて来た。
「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」
 船の中は露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。

 あゝ何か馬鹿になったような淋しさで、私は口笛を吹きながら、遠く走る島の港を見かえった。二人の黒点が消えると、静かなドックの上に、ガアン ガアンと鉄を打つ音がひゞいていた。
 尾道についたら、半分東京へ送ってやろうかな、東京へかえったら、氷屋もいゝな、せめて暑い日盛りを義父さんが、ウロウロ商売をさがして歩かないように、此暮は楽に暮らしたいものだ。
 私は体を延ばして、走る船の上から波に手をつけてみた。
 手を押しやるようにして波が白くはじける、五本の指に藻がもつれた糸のようにからまって、しおしおとしている。
「こんどのストライキは、えれ短かゝったなあ――。」
「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」
 船員達が、ガラス窓を拭きながら、話している。
 私はも一度、青い海の向うにポツンとした島を見た。
[#改ページ]

   淫売婦と飯屋

 十二月×日
[#ここから2字下げ]
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
[#ここで字下げ終わり]
 雪のシラシラ降っている夕方、私は此啄木の歌をふっと思い浮べながら、郷愁《かなしさ》を感じた。便所の窓を明けると門灯がポカリとついて、むかあし山国で見たしゃくなげ[#「しゃくなげ」に傍点]の紅い花のようで、とても美しかった。

「姉やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ!」
 奥さんの声がする。
 あゝあの百合子と云う子供は私に苦手《にがて》だ。よく泣くし先生に似て、シンケイが細々として、全く火の玉を脊負っているような感じだ。
 せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。
 ――バナヽ、鰻、豚《トン》カツ、蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。
 気持が大変貧しくなると、落書したくなる気持ち、豚《トン》カツにバナナ私は指で壁に書いてみた。

 夕飯の仕度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たり。
 秋江氏の家へ来て一週間あまり、先《さき》のメドもなさそうだ。
 こゝの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたり、まるで廿日鼠《はつかねずみ》だ。あのシンケイにはやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
 私の肩を覗いては、先生は安心したようにじんじんばしょりして二階へ上って行く。私は廊下の本箱から、今日はチェホフを引っぱり出して読む。チェホフは心の古里だ。
 チェホフの吐息は、姿は、みな生きて、たそがれの私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。
 匂おわしい手ざわり、こゝの先生の小説を読んでいると、もう一度チェホフを読んでもいゝのになあと思う。京都のお女郎の事なんか、私には縁遠いねばねばした世界だ。

 夜。
 家政婦のお菊さんが、美味《おい》しそうなゴモク寿司をこしらえているのを見て、嬉しくなった。
 赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時だ。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなんだが、不思議な事に、赤ん坊が私の脊におぶさると、すぐウトウト眠ってしまって、家の人達が珍らしがっていた。
 お蔭で本が読めること――。
 年を取って子供が出来ると、仕事も手につかない程心配なのかも知れない。反感《いやみ》がおきる程、先生は赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するもんじゃないと思った。
 うまごやし[#「うまごやし」に傍点]にだって可憐な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら……。
 奥さんは野育ち[#「野育ち」に傍点]な人だけに、眠った様な女だったが、この家では一番好きだった。

 十二月×日
 ひま[#「ひま」に傍点]が出る。
 行くところなし。
 大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に乗った陸橋の上で貰らった紙をひらいてみたら、たった弐円はいっていた。二週間あまりいて、金弐円也、足の先から血があがるような思いだった。

 ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、ザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなった。間代も払って、やれやれと住み込むと、二週間でお払いばこだ。
 蒼い瓦葺きの文化住宅の貸家があった。庭が広ろくて、ガラス窓が二月の風にキラキラ光っていた。休んでやろうかな。
 勝手口をあけると、さびた鑵詰のかんから
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