レオン達は
職工達の血と油で色どられた清算簿をかゝえて
雪夜の狐のようにヒョイヒョイ
ランチへ飛び乗って行ってしまう。
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてゝいるではないか
逃げたランチは
投網のように拡がった○○の船に横切られてしまうと
さても
此小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。

歯を噛み額を地にすりつけても
空は――
昨日も今日も変りのない
平凡な雲の流れだ
そこで!
頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドック[#「ドック」に傍点]の破船の中に渦をまいて雪崩ていった。
潮鳴りの音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ

元気な若者達が
キンキラ光った肌をさらして
カラヽ カラヽ カラヽ
破れた赤い帆の帆縄を力いっぱい引きしぼると
海水止めの関を喰い破って
朱船は風の唸る海へ出た!

それ旗を振れッ
○○歌を唄えッ
朽ちてはいるが
元気に風をいっぱい孕んだ朱帆は
白いしぶき[#「しぶき」に傍点]を蹴って海へ!
海の只中へ矢のように走って出た。

だが……
オーイ オーイ
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な喚叫に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなに脊のびして
空高く呼んでいるではないか!

遠い潮鳴りの音を聞いたか!
波の怒号するを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手を振っている女房子供の目の底には
火の粉のようにつっ走って行く
赤い帆がいつまでも写っていたよ。
[#ここで字下げ終わり]

 宿へ帰えったら、蒼ざめた男の顔が、ぼんやり天井を見ていた。
「宿の叔母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」
「………………」
 私は子供のように涙が湧いた。何の涙でもない、白々とした考えのない涙が、あとからあとから、あふれて、沈黙ってしきい[#「しきい」に傍点]の所に立って泣いた。夕方の空を時鳥がケンケン鳴いて行く。
「こゝへ来るまでは、すがれ[#「すがれ」に傍点]たらすがって[#「すがって」に傍点]みようと思って来たけど、宿の叔母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ、それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがら[#「すがら」に傍点]なくてはいけないと思いました。」
 沈黙っている二人の耳に、ワアンワアン喚声が聞える。
「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸のぞいてみなくては……。」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そゝくさと町へ出てしまった。
 私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]を続けながら、高価な金色の腕時計を、そっと腕にはめてみた。涙がダボダボあふれた。
 東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルして、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。

 六月×日
 宿の娘と連れだって、浜を歩く、今日で一週間になる。
「くよくよおしんな。」私は何もかもメンドくさくなって、呆然としていると、宿の娘は心配してくれる。
 何も考えてやしない。何も考えようがない。
 昨日は東京のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手。私から何もかもむさぼり取った男なんだから、此位のコワガラセが何だろう。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹を打ちつけては、あの男の子供を産む事をおそれたが、今日はいじらしいお伽話だ。

 昨日の電報ガワセで、義父や母が一息ついてくれゝばいゝ、キラキラした浜辺を、洗い髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしている男の兄さんが、オーイオーイと後から呼びかけて来た。
 久し振りに見る兄さん、尾道の家に、木になった蜜柑や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのまゝで、笑いかけている。
「何も言わんもんじゃけん、苦労させやんした。」

 海が青く光っている。
 娘をかえして、二人で町はずれの男の親の家へ行く。
 海近くまで、田が青々して蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。
「あいつが気が弱いもんじゃけん。」
 海にやけた佗し気な顔して兄さんは口をつぐむ。

 家では七十になる老婆が、コトコト米をついていた。牛が一匹優さしい瞳をして私を見た。私は、どうしてもはいりたくなかった。
 何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなった、白い路のつづいている浜路を、私はあとしざりするように、宿へ急いだ。

 六月×日
 颯爽として朝風をあびて、私は島へハンカチを振った。
 どこへ行っても、どうにも仕様のない事だらけなんだ、東京へ帰えろう、私の財布は五六枚の拾円札でふくらんでいた。
 
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