えば、行ける家もあるが、それもメンドウクサイ、切符を買ってあと、五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出した。
 楽書きだらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、ヴォ! ヴォ! 汽笛の音、人の辷り降りの雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。
「因の島行きが出やんすで……。」ガクガクの梯子段を上って、客引きが知らせに来ると、花火のようにやけた、縞のはいった、こうもり[#「こうもり」に傍点]と、小さい風呂敷包みをさげて、波止場へ降りて行った。
「ラムネいりやせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
 物売りの声が、夕方の波止場の上を満たしている。
 紫色の波にゆれて、因の島行きのポッポ船が、ドッポンドッポン白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。
 あの町の灯の下で、ポオル[#「ポオル」に傍点]とヴィルジニイ[#「ヴィルジニイ」に傍点]を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰えったまゝの私は、
「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うちゃったりやんで……。」
と、キテン[#「キテン」に傍点]をきかしてお母さんが、佗し気にほめてくれた事があった。あの頃、町には城ヶ島[#「城ヶ島」に傍点]の唄や、沈鐘[#「沈鐘」に傍点]の唄が流行っていた。
 ラムネを一本買う、残金四拾七銭也。

 夜。
「皆さん、はぶ[#「はぶ」に傍点]い着きやんしたで!」
 船員がロープをほぐしている。小さな舟着き場の横に、白い病院の灯が、海に散っていた。この島で長い事私を働かせて学校へいっていた男が、安々と息しているのだ。造船所で働いているのだ。
「此辺に安宿ありませんか。」
 運送屋のお上さんが、宿屋まで連れて来てくれた。
 糸のように細い町筋を古着屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に、風呂敷包をおくと、私は雨戸をくって海を見た。
 明日は尋ねて行こう。私は四十七銭也の財布を袂に入れると、ラムネ一本のすきばら[#「すきばら」に傍点]のまゝ汐臭い蒲団に足を延ばした。
 どこか遠くの方で、蜂の巣の様にワンワン喚声があがっている。

 六月×日
 枕元をガリガリ水色の蟹が這って行く。町はストライキだ。
「会いに行きなさるゆうても、大変でごじゃんすで、それよりや、社宅の方へおいでんさった方が……。」
 私は心細くかまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]を噛んだ。
 社員達は、全部書類を持って、倶楽部へ集っていると云う。
 私はぼんやりと外へ出た。万里の城のように、えんえんとコンクリートの壁をめぐらしたドックを山の上から見ると、菜っぱ服を旗に押したてゝ通用門みたいなとこに、黒蟻のような職工の群が、ワンワン唸っている。
 山の小道を、子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。六月の海は、銀の粉を吹いて、縺れた樹の色が、シンセンな匂いをクンクンさせていた。
「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」
 髪をいっせいに、後に吹かせた若いお上さんが、ドックを見降した。××と職工のこぜりあい[#「こぜりあい」に傍点]。
「しっかりやれッ!」
「負けなはんな!」
「オーイ……」真昼間の、裸の職工達のリンリとした肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で、
「しっかりやってつかアしゃア[#「しっかりやってつかアしゃア」に傍点]。」
「あんた娼妓さんかな。」私は沈黙ってコックリした。
「御亭主《ゴテイ》があそこにおってんな、うちの人ア、こうなったら、もう死んでもえゝつもりでやる云いしよりやんした。」
 私はわけもなく涙があふれた。事務員をしたりして、つくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている。どうしても会って帰えらなければいけない。
「こゝから見てると、あんな門位、船につかう××××××を投げりゃ、すぐ崩れちゃうのに。」
「職工は正道でがんすけん、皆体で打つかって行きやんさアね。」
 門が崩れた。
 蜂が飛ぶように、黒点が散った。
 ツルツルした海の上を、小舟が無数に四散して行く。

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潮鳴りの音を聞いたか!
茫漠と拡った海の叫喚を聞いたか!

煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散し
夕焼けた浜辺へ集った。

遠い潮鳴りの音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
こゝは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえって
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワアン ワアン
島いっぱいに吠えていた。

ド……ド……ド……
青いペンキ塗りの通用門が群れた肩に押されると
敏活なカメ
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