か。」
私も、派出婦って、いかにも品物みたいな感じのするところよりその方がいゝと思ったので、一ヶ月三十五円で、約束してしまった。
紅茶と、洋菓子が日曜の教会に行ったように少女の日を思い出させた。
「君はいくつですか?」
「廿一です。」
「もう肩上げをおろした方がいゝな。」
私は顔が熱くなった。
卅五円毎月つづくといゝな。だがこれも当分信じられはしない。
母は、岡山の祖母がキトクだと云う電報を手にしていた。私にも母にも縁のない祖母さんだが、たった一人の義父のお母さんだし、これも田舎で、しょんぼりと、さなだ[#「さなだ」に傍点]帯の工場に、通っている一人の祖母さんが、キトクだと云う。どんなにしても行かなくてはいけない。九州の父へは、四五日前に金を送ったばかりだし、今日行ったところへ金を借りに行くのも厚かましいし。
私は母と一緒に、四月もためているのに家主のとこへ行く。
拾円かりて来る。沢山利子をつけて返えそうと思う。
残りの御飯を弁当にして風呂敷に包んだ。
一人旅の夜汽車は佗しいものだ。まして年をとってるし、さゝくれた身なりのまゝで、父の国へやりたくはないが、二人共絶体絶命のどんづまり故、沈黙って汽車に乗るより仕方がない。
岡山までの切符を買ってやる。
薄い灯の下に、下ノ関行きの急行列車が沢山の見送り人を吸いつけていた。
「四五日内には、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして行っていらっしゃい。しょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]したら馬鹿よ。」
母はくッくッ涙をこぼしていた。
「馬鹿ね、汽車賃は、どんな事しても送りますからね。安心して、お祖母さんのお世話していらっしゃい。」
汽車が出てしまうと、何でもなかった事が悲しく切なく、目がぐるぐるまいそうだった。省線を止めて東京駅の前に出る。
長い事クリームを塗らないので、顔が、ヒリヒリする。涙が止度なく馬鹿みたいに流れる。
[#ここから2字下げ]
信ずる者よ来れ主のみもと……
[#ここで字下げ終わり]
遠くで救世軍の楽隊が聞える。何が信ずるものでござんすかだ。自分の事が信じられなくて、たとえイエスであろうと、お釈迦さんであろうと、貧しい者は信じるヨユウ[#「ヨユウ」に傍点]がない、宗教なんて何だ。食う事に困らないものだから、街にジンタまで流している。
信ずる者よ来れ……。まだ気のきいた春の唄がある。
いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血へどを吐いて、××さんの自動車にでもしかれてやろうか。
いとしいお母さん、今貴女は戸塚、藤沢あたり、三等車の隅っこで何を考えています、どの辺を通っています……。
卅五円が続くといゝな。
お濠には、帝劇の灯がキラキラしている。私は汽車の走って行く線路を空想した。何もかも何もかもじっとしている。天下タイヘイで御座候か――。
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旅の古里
六月×日
海が見える。
海が見える。
五年振りに見る、旅の古里の海! 汽車が尾道の海へさしかゝると、煤けた小さい町の屋根が、提灯のように拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える、山は若葉だ、海のむせた[#「むせた」に傍点]緑色の向うに、ドック[#「ドック」に傍点]の赤い船が、キリキリした帆柱を空に突きさしている。
私は涙があふれた。
借金だらけの私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時、町はずれに大きい火事があったが……。
「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに、火が燃えるのは、きっといゝ事がありますよ。」しょぼしょぼ隠れるようにしている親達を私は、こう言って慰めたが、東京でむかえに来てくれる者は、学校へ行っている、私の男一人であった。
だが、あれから、あしかけ六年、私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしている。その男も、学校を出ると、私達を置きざりにして、尾道の向うの因の島へ帰えってしまった。
気の弱い両親をかゝえた私は、当もなく昨日まで、あの雑音のはげしい東京を放浪していたが、あゝ今は旅の古里の海辺だ。海添いの遊女屋の行灯が、つばき[#「つばき」に傍点]のように白く点々と見える。
見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった、海辺の朽ちた昔の家が、じっと息している。
何もかも懐しい姿だ。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がする。
尾道を去る時の私は、肩上げもあったが、今の私の姿は、銀杏返えし、何度も水をくゞった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないが、兎に角、もう汽車は尾道、肥料臭い匂いがする。
午後五時
船宿の時計が五時をさしている。待合所の二階から、町の灯を見ていると、妙に目頭が熱くなる。訪ずねて行こうと思
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