らってお金を置いて帰える。
世の中は、よくもよくもこんなにひゞ[#「ひゞ」に傍点]だらけになるものだ。昨日まで、元気にミシンのペタルを押していた安さん夫婦を思い出す。春だと云うのに、梅が咲いたと云うのに、私は電車の窓に凭れて、赤坂のお濠の灯をいつまでも眺めていた。
四月×日
父より長い音信来る。
長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の金を、お母さんが皆送ってくれと云う。明日は明日だ。
安さんが死んでから、あんな軽便な猿股も出来なくなってしまった。
もう疲れきった私達は、何もかもがメンドくさくなってしまった。
「死んだ方がましだ。」
十参円九州へ送る。
「わし達ゃ三畳でよかけん、六畳ば誰ぞに貸さんかい。」
かしま[#「かしま」に傍点]、かしま[#「かしま」に傍点]、かしま[#「かしま」に傍点]、私はとても嬉しくなって、子供のように書き散らすと、鳴子坂の通りへ張りに出た。
寝ても覚めても、結局死んでしまいたい事に落ちるが、なにくそ! たまには米の五升も買いたいものだ。お母さんは近所の洗い張りでもしようかと云うし、私は女給と芸者の広告がめにつく。
縁側に腰かけて、日向ぼっこしていると、黒い土から、モヤモヤ湯気がたっている。
五月だ、私の生れた五月だ。歪んだガラス戸に洗った小切れをベタベタ張っていたお母さんは、フッと思い出した様に云った。
「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前も、お父さんも八方塞りじゃで……。」
明日から、此八方塞りはどうしてゆくつもりか! 運勢もへったくれもあったものじゃない、次から次から悪運のつながりだ。
腰巻きも買いたし。
五月×日
かしま[#「かしま」に傍点]はあんまり汚ない家なので、まだ誰も来ない。
お母さんは八百屋が借してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見ると、フクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいな。
がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼠のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。
夜の風呂屋で、母が聞いて来たと云って、派出婦になったらと相談した。いゝかも知れない。だが生れつき野性の私である。金満家の家風にペコペコする事は、腹を切るより切ない事だ。だが、お母さんの佗し気な顔を見ていたら、涙がダボダボあふれた。
腹がへっても[#「腹がへっても」に傍点]、ひもじゅうない[#「ひもじゅうない」に傍点]とかぶり[#「かぶり」に傍点]を振っている時じゃないんだ、明日から、今から飢えて行く私達なのだ。
あゝあの拾参円はとゞいたか知ら、東京が厭になった。早くお父さんがゆとり[#「ゆとり」に傍点]をつけてくれるといゝ。九州もいゝな四国もいゝな。
夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたより[#「たより」に傍点]を書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれる人はないかと思ったりした。
五月×日
朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
いとしいお母さん!
大久保百人町のゆりのや[#「ゆりのや」に傍点]と云う派出婦会に行く。
中年の女の人が二人店の間で縫いものをしていた。
人がたりなかったので、そこの主人は、デンピョウのようなものと地図を私にくれた。行く先は、薬学生の助手だと云う。
道を歩いている時が、一番ゆかいだ。五月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、真に天下タイヘイ[#「タイヘイ」に傍点]にござ候と旗をたてゝいるようだ。此街を見ていると、何も事件がないようだ。買いたいものがぶらさがっている。
私は桃割の髪をかしげて、電車のガラス窓でなおした。
本村町で降りると、邸町になった露路の奥にそのうちがあった。
「御めん下さい。」
大きな家だな、こんなでかい家の助手になれるか知ら……、何度もかえろうかと思いながら、ぼんやり立ちつくした。
「貴女派出婦さん! 派出婦会から、何時に出たって電話がかゝって来たのに、おそいので、坊ちゃん怒ってらっしゃるわ。」
私が通されたのは、洋風なせまい応接室。
壁には、色の褪せたミレーの晩鐘の口絵のようなのが張ってあった。面白くもない部屋だ。腰掛けは得たいが知れない程ブクブクしていた。
「お待たせしました。」
何でも此男の父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬の見本の整理で、わけのない事だった。
「でもそのうち、僕の方の仕事が急がしくなると、清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎の方へ研究に行くんですが来てくれますか。」
此男は廿四五かな、私は若い男の年が、ちっとも判らないので、じっと脊の高いその人の顔を見ていた。
「いっそ派出婦の方を止して、毎日来ません
前へ
次へ
全57ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング