恥ずかしいも糞もあったもんじゃない。ピンからキリまである東京だ。裸になり次手に、うんと働いてやろう。私は辛かった菓子工場の事を思うと、気が晴れ晴れとした。
夜。
私は女の万年筆屋さんと、当のない門札を書いているお爺さんの間に、店を出した。
蕎麦屋で借りた雨戸に私はメリヤスの猿股を並べて「弐拾銭均一」の札をさげると万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死[#「ランデの死」に傍点]を読む。
大きく息を吸うともう春だ。この風には、遠い遠い思い出がある。
舗道は灯だ。人の洪水だ。
瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算記を売っている。
「諸君! 何万何千何百に、何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」
高飛車に出る、こんな商売も面白いものだな。
お上品な奥様が、猿股を弐拾分も捻って、たった一ツ買って行く。
お母さんが弁当持って来る。
暖かになると、妙に汚れが目にたつ、お母さんの着物も、さゝくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。
「私が少し変るから、お前御飯お上り。」
お新香に竹輪の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっている。舗道に脊をむけて食べていると、万年筆屋の姉さんが、
「そこにもある、こゝにもあると云う品物ではござりません。お手に取って御覧下さいまし。」
私はふっと塩ぱい涙がこぼれた。
母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄をうたっている。
[#ここから3字下げ]
たったったっ田の中で……
[#ここで字下げ終わり]
九州へ行っている父さんさえこれでよくなったら、当分はお母さんの唄でないが、たったかたのた[#「たったかたのた」に傍点]だ。
四月×日
水の流れのような、薄いショールを街を歩く娘さん達がしている。一ツ欲しいな。洋品店の四月の窓飾りは、金と銀と桜の花だ。
[#ここから2字下げ]
空に拡った桜の枝に
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき
食えなくてボードビルに飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。
ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するする奇妙な糸がたぐって行きます。
花が咲きたいんじゃなく
強権者が花を咲かせるのです
貧しい娘さん達は
夜になると
果実のように唇を
大空へ投げてやるのですってさ
青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけ[#「くちづけ」に傍点]なのですよ
そっぽをむいた
唇の跡なんですよ。
[#ここで字下げ終わり]
ショールを買う金を貯める事を考えたら、ゼントリョウエン[#「ゼントリョウエン」に傍点]なので割引きの活動見に行く。フィルムは鉄路の白バラ。
途中雨が降り出したので、活動から飛び出すと店に行く。
お母さんは茣蓙をまるめていた。
いつものように、二人で荷物を脊負って、駅へ行くと、花見帰えりの金魚のようなお嬢さんや、紳士達が、夜の駅にあふれて、藻のようにくねっていた。
二人は人を押しわけて電車へ乗る。
雨が土砂降りだ。いゝ気味だ。もっと降れもっと降れ。花がみんな散ってしまうといゝ。暗い窓に頬をよせて外を見ると、お母さんがしょんぼりと子供のように、フラフラしているのが写っている。
電車の中まで意地悪がそろっているものだ。
九州からの音信なし。
四月×日
雨にあたって、お母さんが風を引いたので一人で店を出しに行く。
本屋には新らしい本がプンプン匂っている買いたいな。
泥濘にて道悪し、道玄坂はアンコを流したような舗道だ。一日休むと、雨の続いた日が困るので、我慢して店を出す。
色のベタベタにじんでいる街路に、私と護謨靴屋さんきりだ。
女達が私の顔を見てクスクス笑って通る。頬紅が沢山ついているのか知ら、それとも髪がおかしいのか知ら、私は女達を睨み返えしてやった。
女ほど同情のないものはない。
ポカポカお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ[#「かもじ」に傍点]屋さん店を出す。湯銭が弐銭上ったとこぼしていた。
昼はうどん二杯たべるの――拾六銭也――
学生が、一人で五ツも買って行ってくれた。今日は早くしまって芝へ仕入れに行って来よう。
帰えり鯛焼きを拾銭買う。
「安さんがお前、電車にしかれて、あぶないちゅうが……。」
帰えると、母は寝床の中から叫んだ。
私は荷を脊負ったまゝ呆然としてしまった。
昼過ぎ、安さんの家の者が知らせに来たと母は書きつけた病院の紙をさがしていた。
夜芝の安さんの家へ行く。
若いお上さんが、眼を泣き腫らして、病院から帰えって来た。
少しばかり出来上っている品物をも
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