銭銀貨を手のひらに載せると、両方の袂に一ツずつ入れて、まぶしい外に出ると、いつもの飯屋へ流れた。
本当にいつになったら、あのこじんまりした食卓をかこんで、呑気に御飯が食べられるかしら。
一ツ二ツの童話位では、満足に食ってゆけないし、と云ってカフェーなんかで働く事は、たわし[#「たわし」に傍点]のように荒んで来るし、男に食わせてもらう事は切ないし、やっぱり本を売っては、瞬間々々の私でしかないのだ。
夕方風呂から帰って爪をきっていたら、画学生の吉田さんが遊びに来た。写生に行ったんだと云って、拾号の風景画をさげて、生々しい絵の具の匂いをぷんぷんたゞよわせていた。
詩人の相川さんの紹介で知った切りで、別に好でも嫌でもなかったが、一度、二度、三度と来るのが重なると、一寸重荷のような気がしないでもなかった。
紫色のシェードの下に、疲れたと云って寝ころんでいた吉田さんは、ころりと起きあがると、
――瞼、瞼、薄ら瞑った瞼を突いて、
[#ここから3字下げ]
きゅっと[#「きゅっと」に傍点]抉ぐって両眼をあける。
長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや!
[#ここで字下げ終わり]
「こんな唄を知っていますか。白秋の詩ですよ。貴女を見ると、この詩を思い出すんです。」
風鈴が、そっと私の心をなぶった。
ヒヤヒヤとした縁端に足を投げ出していた私は、灯のそばにいざりよって男の胸に顔を寄せた。燃えるような息を聞いた。たくましい胸の激しい大波の中に、しばし私は石のように溺れていた。
切ない悲しさだ。女の業なのだ。私の動脈は噴水の様にしぶいた。
吉田さんは震えて沈黙っている。私は油絵の具の中にひそむ、あのエロチックな匂いを此時程嬉しく思った事はなかった。
長い事、私達は情熱の克服に務めた。
脊の高い吉田さんの影が門から消えると、私は蚊帳を胸に抱いたまゝ泣き濡れてしまった。あゝ私にはあまりに別れた男の思い出が生々しかったもの……私は別れた男の名を呼ぶと、まるで手におえない我まゝ娘のようにワッと声を上げた。
六月×日
今日は隣りの八畳の部屋に別れた男の友人の五十里さんが越して来る日だ。
私は何故か、あの男の魂胆[#「魂胆」に傍点]がありそうな気がして、不安だった。
飯屋へ行く路、お地蔵様へ線香を買って上げる。帰って髪を洗うと、さっぱりした気持ちで、団子坂の静栄さんの
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