ように青っぽい匂いの流れてくる暗い廊下に、私は瞳にいっぱい涙をためて、初夏らしい、ハーモニカの音を耳にした。
 顔いっぱいが、いゝえ体いっぱいが、針金でつくった人形みたいに固くなって切なかったけれど……。
「やあ……。」私は子供のように天真に哄笑して、切ない瞳を、始終机の足に向けていた。

 あれから今日へ掛けての私は、もう無茶苦茶な世界への放浪だ。
「十五銭で接吻しておくれよ!」
と、酒場で駄々をこねたのも胸に残っている。
 男なんてくだらない!
 蹴散らして、蹈たくってやりたい怒に燃えて、ウイスキーも日本酒もちゃんぽん[#「ちゃんぽん」に傍点]に呑み散らした、私の情けない姿が、こうして静かに雨の音を聞きながら、床の中にいると、いじらしく、憂鬱に浮かんで来る。今頃は、風でいっぱいふくらんだ蚊帳の中で、あの女優の首を抱えているであろう……と思うと、飛行船に乗って、バクレツダンを投げてやりたい気持ちだ。

 私は宿酔いと、空腹でヒョロヒョロする体を立たせて、ありったけの一升ばかりの米を土釜に入れて、井戸端に出た。
 下の人達は皆風呂に出たので、私はきがね[#「きがね」に傍点]もなく、大きい音をたてゝ米をサクサク洗った。雨にドブドブ濡れながら、只一筋にそっとはけて行く白い水の手ざわりを楽しんだ。

 六月×日
 朝。
 ほがらかなお天気だ。雨戸をくると、白い蝶々が、雪のように群れて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。
 雲があんなに、むくむくもれ上っている。ほんとにいゝ仕事をしなくちゃあ、火鉢にいっぱい散らかった煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の一人住いもいゝものだと思えた。朦朧とした気持ちも、この朝の青々とした空気を吸うと、元気になって来る。
 だが楽しみの郵便が、七ツ屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円四十銭の利子なんか抹殺してしまえだ!

 私は黄色の着物に、黒い帯を締めると、日傘をクルクル廻わして、幸福な娘のように街へ出た。例の通り古本屋への日参だ。
「叔父さん、今日は少し高く買って丁戴ね。少し遠くまで行くんですから……。」
 この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいゝ笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかゝえた。
「一番今流行る本なの、じき売れてよ。」
「へえ……スチルネルの自我論ですか、壱円で戴きます。」
 私は二枚の五拾
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