の上に、紅々と空に突きさしていたあざみ[#「あざみ」に傍点]の花、皆何年か前のなつかしい思い出だ。
私は磯臭い蒲団にもぐり込むと、バスケットから、コロロホルムのびん[#「びん」に傍点]を出して、一二滴ハンカチに落した。
此まゝ消えてなくなりたい今の心に、じっと色々な思いにむせている事がたまらなくなって、私は厭なコロロホルムの匂いを押し花のように鼻におし当てた。
十一月×日
遠雷のような汐鳴りの音と、窓を打つ※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]々たる雨の音に、私がぼんやり目を覚ましたのは、十時頃だろうか、コロロホルムの酢の様な匂いが、まだ部屋中流れているようで、私はそっと窓を開けた。
入江になった渚に、蒼い雨が煙っていた。しっとりとした朝である。母屋でメザシを焼く匂いがプンプンする。
昼から、あんまり頭がズキズキ痛むので、娘と二人黒犬を連れて、日在浜に出て見る。
渚近い漁師の家では、女子供が三々五々群れて、生鰯を竹串につきさしていた。竹串にさゝれた生鰯が、兵隊のように並んだ上に、雨あがりの薄陽が銀を散らしていた。
娘は馬穴《ばけつ》にいっぱい生鰯を入れてもらうとその辺の雑草を引き抜いてかぶせた。
「これで拾銭ですよ。」
帰えり道、娘は重そうに馬穴《ばけつ》を私の前に出してこう云った。
夜は生鰯の三バイ酢に、海草の煮つけに生玉子、娘はお信さんと云って、お天気のいゝ日は千葉から木更津にかけて、魚の干物の行商に歩くのだそうな。
店で茶をすゝりながら、老夫婦にお信さんと雑談していると、水色の蟹が敷居の上をガクガク這って行く。
生活に疲れ切った私は、石ころのように動かない此人達の生活を見ると、そゞろうらやましく、切なくなってしまう。
風が出たのか、ガクガクの雨戸が、難破船のようにキイコ、キイコゆれて、チェホフの小説にでもありそうな古風な浜辺の宿、十一月にはいると、もう足の裏が冷々とつめたい。
十一月×日
[#ここから2字下げ]
富士を見た
富士山を見た
赤い雪でも降らねば
富士をいゝ山だと賞めるに当らない。
あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った徊想
尖った山の心は
私の破れた生活を脅かし
私の瞳を寒々と見降ろす。
富士を見た
富士山を見た
烏よ!
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け!
真紅な口でカラアとひと
前へ
次へ
全114ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング