うか。
夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって、遠くに明い廓の女郎達がふっと羨ましくなった。
沢山の本も今はもう二三冊になって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの「労働者セイリョフ」直哉の「和解」がさゝくれてボサリとしていた。
「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
ちん[#「ちん」に傍点]とあきらめてしまった私は、おきやがりこぼし[#「おきやがりこぼし」に傍点]のように変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、風の吹く夕べの街へ出た。
――女給入用――のビラの出ていそうなカフェーを次から次へ野良犬のように尋ねて……只食う為に、何よりもかによりも私の胃の腑は何か固形物を慾しがっていた。
あゝどんなにしても食わなければならない。街中が美味そうな食物じゃあないか!
明日は雨かも知れない。重たい風が漂々と吹く度に、昂奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがする。[#地から2字上げ]――一九二八・九――
[#改ページ]
濁り酒
十月×日
焼栗の声がなつかしい頃になった。
廓を流して行く焼栗のにぶい声を聞いていると、ほろほろと淋しくなって暗い部屋の中に、私はしょんぼりじっと窓を見ていた。
私は小さい時から、冬になりかけると、よく歯が痛んだ。
まだ母親に甘えている時は、畳に転々泣き叫び、ビタビタの梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]をして泣いていた私だった。
だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした佗しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思出す。
水っぽい瞳を向けてお話をするのゝ[#「のゝ」に傍点]様は、歪んだ窓外の漂々としたお月様ばかり……。
「まだ痛む……。」
そっと上って来たお君さんの大きいひさし[#「ひさし」に傍点]髪が、月の光りで、黒々と私の上におおいかぶさると、今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔の香をたゞよわせて、お君さんは枕元にそっと寿司皿を置いた。そして黙って、私のみひらいた目を見ていた。
優しい心づかいだ……わけもなく、涙がにじんで、薄い蒲団の下からそっと財布を出すと、君ちゃんは、
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