「馬鹿ね!」
厚紙でも叩くようなかるい痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打つと、蒲団の裾をジタジタとおさえてそっと又、裏梯子を降りて行った。
あゝなつかしい世界だ。
十月×日
風が吹く。
夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。
それにとき[#「とき」に傍点]色の腰紐が結ばれていて、妙に起るとから[#「起るとから」はママ]、胸さわぎのするようないゝ事が、素的に楽しい事があるような気がする。
朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はあゝと長い溜息をついて、壁の中にでもはいってしまいたかった。
今朝も泥のような味噌汁と、残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思った。
私は何も塗らない、ぼんやりとした顔を見ていると、急に焦々として、唇に紅々と、べに[#「べに」に傍点]を引いてみた。
あの人はどうしているかしら……AもBもCも、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたが、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……。
神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなった。
のれん[#「のれん」に傍点]越しにすがすがしい朝の盛塩を見ていると、女学生の群にけとばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行く。
私が此家に来て二週間、もらい[#「もらい」に傍点]はかなりある。
朋輩が二人。
お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返しのよく似合うほんとに可愛いこだった。
「私は四谷で生れたのだけど、十二の時、よその叔父さんに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじき売られたから、その叔父さんの顔もじき忘れっちまったけど……私そこの桃千代と云う娘と、よく広いつるつるした廊下をすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだった。
内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴をはいて見にいったわ、土が凍ってしまうと、下駄で歩けるのよ、だけどお風呂から上ると、鬢の毛がピンとして、おかしいわよ。
私六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったのよ。」
客の飲み食いして行った後の、テーブルにこぼれた酒で字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。
も一人私より一日早くはいったお君さんは脊の高い母性的な、気立のいゝ女だった。
廓の
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