]のやうに、のつぺらぼうな顏かたちにしか浮んで來ない。女房よりいゝ女はなかつたと、隆吉は心の底でしみじみと、その戀しい女房の片身である娘と添寢しながら、何とないあたゝかな幸福を感じるのであつた。
この娘が、どのやうな男を得るのかは判らないけれども、いゝ男を選んで倖せになつてくれるといゝと念じる。長い事洗はないとみえて、娘の髮の毛が匂つた。かつかうのいゝ鼻つきから、うすく唇をひらいたところは、亡妻にそつくりであつた。閉ぢたまつげは、深いかげをつくり、まことに憎からぬ風情で妙子は平和な寢姿でゐる。
隆吉は、娘の寢姿に見とれながら、子供のやうにせぐりあげる淋しさに落ちこんでゆく。財産よりも身内のものが何よりも寶だと思へた。幽靈にでもなつて亡妻が出て來てくれぬものかと、妙な事を考へてみる。年齡のせゐか、ひどく人生が虚無的になり、朝々、鷄の聲をきゝながら隆吉は、ぼんやりと、そのひとゝきを無上の境地として過してゐるのであつた。
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風來りて房戸《ばうと》に入り
夜中|枕席《ちんせき》冷かなり
氣變じて時の易《かは》るを悟り
眠らずして夕の永きを知る。
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隆吉は何かの詩句にあつた、この文章が好きで、朝、白い月の殘つてゐる時なぞ、ひとしほこの思ひが濃く胸の中を去來して、人戀しくなるのである。――亮太郎が時々冗談にことよせて、茶飮み友達がなくちやア淋しいね。三十八になる未亡人があるのだが、隆吉さん、どうです? 結婚する氣はありませんかと云つた事があつた。今さら女房を貰つて無駄な苦勞はしたくないねと云つてはみたものの、隆吉もまだ老春《らうしゆん》らしき氣配はあつた。まんざら女がいらないわけではなかつた。痛切に欲しいと思ふ時もあつたが、妙子の成長する姿を見てゐると、もうすべて、男のいやしい慾望は捨てなければならぬと悟つてもみる。
いまさら女房を貰つて、あと何年間か、つまらぬくりかへしを營んだところで、それが何であらうと思ふのであつたけれども、糸子が病みついて亡くなつてから、まる五年と云ふもの、隆吉は僧侶のやうな精進けつぱく[#「けつぱく」に傍点]な生活をおくつてゐた。幸ひその間は戰爭つゞきで、あわただしく過してゐたせゐもあつて、別に生身《なまみ》な男の淋しさと云ふものを味はつた事はなかつた。さうしたきざし[#「きざし」に傍点]があれば、
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