ぎんみしてゐたので、とくいの客も段々ふえて行つた。なかには、妙子を目標にして來る客もあり、妙子はよく心得て、さうした客達をじよさいなくあつかつてゐた。
 磯部隆吉は、店が繁昌していつたところで、それが愉しいと云ふわけでもなく、一生懸命に働いてはゐても、昔ほどの野心も欲望もなく、酒好きな河邊亮太郎が尋ねて來ると、隆吉は亮太郎と、狹い自分達の部屋で、酒を飮みながらよもやま話をするのが唯一の愉しみであつた。
 店の土間は三坪ばかりで、粗末な卓子と椅子を置き、紙張りの天井には、雨漏りの汚點が出來てゐると云つた佗しいかまへで、自分達の部屋も六疊一間で、軍隊毛布を、破れた疊に敷き、小さい電氣コンロの炬燵を置いた風情のない部屋であつた。臺所が土間の三疊で、こゝだけには豐富に酒や、仕入れの食料がぎつしり詰つてゐた。臺所の出口には、隆吾が手作りの箱をつくつて、そこへ白色レグホンを二羽飼つてゐた。朝の早い隆吉は、鷄の鳴く聲がきゝたいばつかりに鷄を飼つたのである。
 滿洲でも、隆吉は鷄を澤山飼つてゐた。仄々と明けてゆく夜明の時刻に、たけだけしく鳴く鷄の聲は、隆吉にいろいろな思ひ出をさそふのである。あゝあんな時もあつた、こんな事もあつたと、蒲團に腹這ひになつて、煙草を一服つけながら、間をおいては、時を告げる鷄の聲に耳をかたむけてゐる氣分は何とも云へなかつた。自分によりそつてぐつすり眠つてゐる妙子のおもざしのなかに、亡くなつた妻の糸子のおもかげがはうふつとして、ふつと若き日の夫婦のこまやかな思ひ出を呼びおこす……。駈落のやうな氣持で内地を去るときの、若い糸子との旅立ちも、いまは一片の夢になり果てて、もう苦樂をともにした妻は冥府へ去つてゐないのだと思ふと、何となく、寒々しい淋しさが身内にせまつて來た。をかしい事だけれども、女房と云ふものはいゝものだと思へた。年を取るにつれ、澤山の友人も一人去り二人去り、浮氣心で關係のあつた女もかすみの世界に消えていつた現在では、思ひ出すのは亡妻の事ばかりである。
 鷄の聲をきゝながら、隆吉は、あたゝかくお互ひの體をよせながら、夜明けのひとゝきを語りあつた、愉しい日々を仄々と思ひ浮べてみる。隆吉は、妻と一緒の時代にも、方々へ出張する度、その場所や、時のはずみで、四五人の女を知つてゐたのだけれども、いまは、その女達のおもかげは、まるでしやもじ[#「しやもじ」に傍点
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