はひとまづ、河邊の家へ落ちついた。無一文、無財産ではあつたけれども根が樂天家で、朴《ほほ》を抱き眞を含めりで、どのやうな環境にもびくともしない心根は、長い間の大陸放浪から來てゐる無欲てんたん[#「てんたん」に傍点]にあるのに違ひない。河邊の妻は、私立女學校の家政科の教師をしてゐたが河邊のやつかいな道連れを、あまり心よくは迎へてはくれなかつた。
妙子のきてん[#「きてん」に傍点]で、母のかたみのダイヤの指輪をズボンの裾の縫目に、妙子は閉ぢこめておいた。髮の毛はぢやきぢやきに剪つて、中耳炎の如くよそほひ汚れた繃帶を頭からあごへ卷きつけて兩方の耳の中に、母のプラチナの時計一つと、金の指輪を一つはさみこんで隱して持つて來た。
隆吉は何も知らなかつた。妙子は本當に耳が惡いのだと思つてゐた。繃帶はところどころ血がついて、煮〆たやうに汚れてゐた。十七の娘が、見るかげもなくやつれ果てて痩せて背の高い姿は、誰の注意も惹かなかつた。
無事に、この三つの寶は、娘の體に守られて故國へ戻つて來た。妙子は隆吉の娘のうちでも、とりわけきりやうのいゝ顏立ちで、日本へ戻つて一ヶ月もすると、めきめきと美しさが光を放つて來た。性質は闊達。新京の女學校の寄宿舍では、毒婦と云ふ蔭のニツクネームがあつた位で、どの男の教師も、妙子にあつては自由自在にあつかはれる魔力がひそんでゐた。肌は淺黒く、背が高いので、年よりは一つ二つ大人に見えた。野性的の皓《しろ》い齒並の美しさが、笑ふ度に、何とも云へない魅力を持つてゐたし、太い眉と眼はつまつてゐたけれども、眼は大きく情をたゝへてよく光つてゐた。
首の細いのが弱々しく見えたが、聲は美しく澄んでゐた。日本の土を生れて初めて踏んだ妙子は、何も彼も珍しく、苦難な脱出の日の數々の思ひ出も、祖國にかへつて充分なぐさめられるやうな氣がした。
財産を失ひ、妻や娘を亡くした隆吉も、月日がたつにつれ、一種のあきらめが出來て、妙子の持つて歸つたさゝやかな寶石類を賣つて六萬圓ばかりの金をつくつた。亮太郎の世話で、池袋の商店街に、小さいマアケツトの出物があつたのをゆづりうけて、そこでさゝやかな酒場を開いた。名前も自分で皮肉つた崩浪亭《はうらうてい》とつけて、妙子と二人で一生懸命に働いた。開店の時期もよかつたのか、ことのほか繁昌したし、客種も割合よくて、食料店をやつてゐたゞけに、酒だけは
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