い、生活の不如意と、目的のない焦々《いらいら》しさで困ってしまいました。半年もすると、両親は尾の道を引きはらい、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌ひとつ見ることが出来ませんでした。また読みたいとも思わず、私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封《おびふう》書きに傭《やと》われて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。東中野の川添と云う田圃《たんぼ》の中の駄菓子屋の二階に両親といました。私は、このあたりから文学的自叙伝などとはおよそ縁遠い生活に這入り、ただ、働きたべるための月日をおくりました。日給がすくないので、株屋の事務員をしたりしました。日本橋に千代田橋と云うのがあります。白木屋《しろきや》のそばで繁華な街でした。橋のそばの日立商会と云う株屋さんに月給参拾円で通いましたが、ここも三、四ヶ月で馘《くび》になり、私は両親と一緒に神楽坂《かくらざか》だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは大変はずかしかったのですけれども、馴《な》れて来ると、私は両親と別れて、一人で夜店を出すようになりました。寒い晩などは、焼けるよう
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