く、私は身分不相応に貰った印税で、その秋、すぐ支那へ二ヶ月の予定で旅立って行きました。大いに考えるつもりでもあったのです。旅の間中、小説を書きたいと思いました。
 昭和六年三月、私は処女作として『風琴と魚の町』と云うのを改造へ書かせて貰いましたが、大人の童話のようなものでした。小説の形式では、その年の正月から約二ヶ月、東京朝日新聞の夕刊に『浅春譜』と云うのを発表していましたが、大変失敗の作でした。
 プロレタリア文学はますますさかんでした。私は、孤立無援の状態で、自分の一切に絶望していました。仕事してゆく自信、生きてゆく自信がなくなり、どこか外国へ行ってみたくて仕方がありませんでした。
 旧作、『清貧の書』の書きなおしにかかり、その年の改造十月号に清貧の書を送り、雑文でよせあつめた金を持って、私はシベリア経由で、昭和六年|仏蘭西《フランス》へ旅立って行きました。なかなか、この当時、私は行動主義でもあったわけです。再び日本へは帰って来られないと思いました。シベリアのさまざまな雪景色を眺めて、外国でのたれ死にするかも知れないと、本気でそんなことを考えていました。巴里《パリ》に着いてからも私
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