なカイロを抱いて、古本に読み耽りました。私の読書ときたら乱読にちかく、ちつじょ[#「ちつじょ」に傍点]もないのですが、加能作次郎《かのうさくじろう》と云うひとの霰《あられ》の降る日と云うのを不思議によく覚えています。いまでも、加能作次郎氏はいい作家だと思います。加能氏が牛屋《ぎゅうや》の下足番《げそくばん》をされたと云うのを何かで読んでいたので、よけいに心打たれたのでしょう。私はその頃新潮社から出ていた文章|倶楽部《くらぶ》と云う雑誌が好きでした。室生犀星《むろうさいせい》氏が朝湯の好きな方だと云うことも、古本屋で買った文章倶楽部で知りました。室生氏が手拭《てぬぐい》をぶらさげて怒ったような顔で立っていられる写真を覚えています。私は室生氏の詩が大変好きでした。大正十二年震災に逢って、私たちは東京を去り、暫《しばら》く両親と四国地方を廻っておりました。暗澹《あんたん》とした日常で、何しろ、すすんで何かやりたいと云った熱情のない娘でしたので、住居《すまい》も定まらず親子三人で宿屋から宿屋を転々としながら、私は何時も母親に余計者だとののしられながら暮らしていました。大正十三年の春、また、私はひとりで東京へ舞い戻って来ました。セルロイド工場の女工になったり、毛糸店の売子になったり、或る区役所の前の代書屋に通ったりして生活していましたが、友人の紹介で、田辺若男《たなべわかお》氏を知りました。松井須磨子《まついすまこ》たちと芝居をしていたひとです。私は、間もなく、この田辺氏と結婚しました。同棲二、三ヶ月の短い間でありましたが、私はこの結婚生活の間に、田辺氏の紹介で詩を書く色々な人たちに逢いました。萩原恭次郎《はぎわらきょうじろう》氏とか壺井繁治《つぼいしげじ》氏、岡本潤《おかもとじゅん》氏、高橋新吉《たかはししんきち》氏、友谷静栄《ともやしずえ》さんなど、みんな元気がよくて、アナアキズムの詩を書いていました。夏の終り頃、田辺氏に去られて、私は友谷静栄さんと「二人」と云う詩の同人雑誌を出しました。いまその「二人」が手許《てもと》にないのでどんな詩を書いていたのか忘れてしまったけれども、なかでもお釈迦《しゃか》様と云うのを辻潤《つじじゅん》氏が大変讃めて下すったのを記憶しています。――本郷の肴町《さかなまち》にある南天堂と云う書店の二階が仏蘭西《フランス》風なレストランで、そこには
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