た。雨が降ると、詩と云うものを読んで聞かしてくれました。レールモントフと云うひとの少女の歌える歌とか云う、

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かり[#「かり」に傍点]する人の鎗《やり》に似て
小舟は早くみどりなる
海のおもてを走るなり
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 と云ったものや、ハイネ、ホイットマン、アイヘンドルフ、ノヴァリス、カアル・ブッセと云った外国の詩を読んでくれました。その外国の人たちがどんな詩を書いていたのか、みんな忘れてしまったけれども、随分心温かでした。生徒はみんなノートしているのに、私だけはノートもしないで、眼をつぶってその詩にききほれたものでした。ビヨルソンの詩とか、プウシキンのうぐいすと云う名前など、綺麗な唄なので覚えています。自然に、私は詩が大変好きになりました。燃えあがる悲しみやよろこばしさを、不自由もなく歌える詩と云うものを組しやすしと考えてか、埒《らち》もない風景詩をその頃書きつけて愉《たの》しんでいました。
 大正十一年の春、女学校生活が終ると、何の目的もなく、世の常の娘のように、私は身一つで東京へ出て参りました。汽車の煤煙が眼に這入って、半年も眼を患《わずら》い、生活の不如意と、目的のない焦々《いらいら》しさで困ってしまいました。半年もすると、両親は尾の道を引きはらい、東京の私の処へやって参りました。私は東京へ来てから雑誌ひとつ見ることが出来ませんでした。また読みたいとも思わず、私は、大正十一年の秋、やっと職をみつけて、赤坂の小学新報社と云うのに、帯封《おびふう》書きに傭《やと》われて行きました。日給が七拾銭位だったでしょう。東中野の川添と云う田圃《たんぼ》の中の駄菓子屋の二階に両親といました。私は、このあたりから文学的自叙伝などとはおよそ縁遠い生活に這入り、ただ、働きたべるための月日をおくりました。日給がすくないので、株屋の事務員をしたりしました。日本橋に千代田橋と云うのがあります。白木屋《しろきや》のそばで繁華な街でした。橋のそばの日立商会と云う株屋さんに月給参拾円で通いましたが、ここも三、四ヶ月で馘《くび》になり、私は両親と一緒に神楽坂《かくらざか》だの道玄坂だのに雑貨の夜店を出すに至りました。初めのうちは大変はずかしかったのですけれども、馴《な》れて来ると、私は両親と別れて、一人で夜店を出すようになりました。寒い晩などは、焼けるよう
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