毎晩のように色々な文人が集りました。辻潤氏や、宮嶋資夫《みやじますけお》氏や片岡鉄兵《かたおかてっぺい》氏などそこで知りました。ひとりになると、私はまた食べられないので、その頃は、神田のカフェーに勤めていました。大正琴のあるようなカフェーなので、そんなに収入はありませんでした。「二人」は金が続かないので五号位で止《や》めてしまいました。友谷静栄と云うひとは才能のあるひとで、その頃、新感覚派の雑誌、文学時代の編輯をも手伝っていました。私は、その頃童話のようなものを書いていましたが、これは愉しみで書くだけで少しも売れなかったのです。
 私にとって、一番苦しい月日が続きました。ある日、私は、菊富士ホテルにいられた宇野浩二《うのこうじ》氏をたずねて、教えを乞うたことがありましたが、宇野氏は寝床《ねどこ》の中から、キチンと小さく坐っている私に、「話すようにお書きになればいいのですよ」と云って下すった。たった一度お訪ねしたきりでした。間もなく、私は野村吉哉《のむらよしや》氏と結婚しました。大変早くから詩壇に認められたひとで、二十歳の年には中央公論に論文を書いていました。その頃、草野心平《くさのしんぺい》さんが、上海から薄い同人雑誌を送ってよこしていました。――世田ヶ谷の奥に住んでいました時、まだ無名作家の平林たい子さんが紅《あか》い肩掛けをして訪ねて見えました。その頃、私におとらない[#「おとらない」に傍点]ように、たい子さんも大変苦労していられたようでした。野村氏とは二年ほどして別れた私は新宿のカフェーに住み込んだりして暮らしていました。カフェーで働くことも厭になると、私はその頃、ひとりぐらしになっていたたい子さんの二階がりへ転り住んで、暫《しばら》くたい子さんと二人で酒屋の二階で暮らしました。その頃、無産婦人同盟と云うのにも這入りましたが、私のような者には肌あいの馴れない婦人団体でした。その頃、童話を書くかたわら、私は文芸戦線に、創刊号から詩を書いていました。ところで、私の童話はまれにしか売れないのです。――
 私はその頃、徳田秋声《とくだしゅうせい》先生のお家にも行き馴れておりました。みすぼらしい私を厭がりもしないで、先生は何時行っても逢って下すったし、お金を無心して四拾円も下すったのを今だにザンキ[#「ザンキ」に傍点]にたえなく思っています。徳田先生には一度も自分の小説
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