盗《ぬす》んで、はんど[#「はんど」に傍点]甕の横に隠しておいた。
「時勢が進むと、安うて、ハイカラなものが出来るもんかなア」
 町中「一瓶つければ桜色」の唄が流行《はや》った。化粧水は、持って出るたび、よく売れて行った。
 その頃、籠の中へ、牛肉を入れて売って歩く婆さんが来た。もうけ[#「もうけ」に傍点]があるのであろう、母は気前よく、よくそれを買った。蒟蒻《こんにゃく》を入れると、血のような色になって、「犬の肉ででもあっとじゃろ」と、三人とも安いのでよく、その赤い肉を食った。
「やっぱし、犬の肉でやんすで」
 階下のおばさんは、買った肉を犬にくれたら、やっぱし食わなかったと、それが犬の肉である事を保証した。
 雨がカラリと霽《は》れた日が来た。ある日、山の学校から帰って来ると、母が、息を詰めて泣いていた。
「どぎゃん、したと?」
「お父さんが、のう……警察い行きなはった」
 私は、この時の悲しみを、一生忘れないだろう。通草《あけび》のように瞼が重くなった。
「おッ母さんな、警察い、ちょっと行って来ッで、ええ子して待っとれ」
「わしも行く。――わしも云うたい、お父さん帰るごと」
「子供が行ったっちゃ、おごらるるばかり、待っとれ!」
「うんにゃ! うんにゃ! 一人じゃ淋《さび》しか!」
「ビンタ[#「ビンタ」に傍点]ばやろかいッ!」
 母が出て行った後、私は、オイオイ泣いた。階下のおばさんが、這い上って来て、一緒に傍に横になってくれても、私は声をあげて泣いた。
「お父さんが云わしたばい、あア、おばっさん! 戦争の時、鑵詰《かんづめ》に石ぶち込んで、成金さなったものもあるとじゃもの、俺がとは砂粒《すなつぶ》よか、こまかいことじゃ云うて……」
「泣きなはんな、お父さんは、ちっとも悪うはなかりゃん、あれは製造する者が悪いんじゃけのう」
「どぎゃんしても俺や泣く! 飯ば食えんじゃなっか!」
 私は、夕方町の中の警察へ走って行った。
 唐草《からくさ》模様のついた鉄の扉に凭れて、父と母が出て来るのを待った。「オンバラジャア、ユウセイソワカ」私は、鉄の棒を握って、何となく空に祈《いの》った。
 淋しくなった。
 裏側の水上署でカラカラ鈴《すず》の鳴る音が聞える。
 私は裏側へ廻《まわ》って、水色のペンキ塗《ぬ》りの歪んだ窓へよじ登って下を覗いてみた。
 電気が煌々《こうこう》とついていた。部屋の隅に母が鼠《ねずみ》よりも小さく私の眼に写った。父が、その母の前で、巡査《じゅんさ》にぴしぴしビンタ[#「ビンタ」に傍点]を殴られていた。
「さあ、唄うてみんか!」
 父は、奇妙《きみょう》な声で、風琴を鳴らしながら、
「二瓶つければ雪の肌」と、唄をうたった。
「もっと大きな声で唄わんかッ!」
「ハッハッ……うどん粉つけて、雪の肌いなりゃア、安かものじゃ」
 悲しさがこみあげて来た。父は闇雲《やみくも》に、巡査に、ビンタ[#「ビンタ」に傍点]をぶたれていた。
「馬鹿たれ! 馬鹿たれ!」
 私は猿《さる》のように声をあげると、海岸の方へ走って行った。
「まさこヨイ!」と呼ぶ、母の声を聞いたが、私の耳底には、いつまでも何か遠く、歯車のようなものがギリギリ鳴っていた。
[#地から1字上げ](昭和六年四月)



底本:「ちくま日本文学全集 林芙美子」筑摩書房
   1992(平成4)年12月18日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学大系 69」筑摩書房
   1969(昭和44)年
初出:「改造」
   1931(昭和6)年4月
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2006年9月21日作成
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