?」
「うん、見て来た! 山のごツ売れよった」
「ほんまな?」
「ほんま!」
私の腰に、また紫の包みをくくりつけてくれながら、母の眼は嬉《うれ》し気《げ》であった。
「ぬくう[#「ぬくう」に傍点]なった、風がぬるぬるしよる」
「小便《こよう》がしたか」
「かまうこたなか、そこへせいよ」
桟橋の下にはたくさん藻《も》や塵芥《じんかい》が浮《う》いていた。その藻や塵芥の下を潜《くぐ》って影《かげ》のような魚がヒラヒラ動いている。帰って来た船が鳩《はと》のように胸をふくらませた。その船の吃水線《きっすいせん》に潮が盛り上ると、空には薄い月が出た。
「馬の小便《こよう》のごつある」
「ほんでも、長いこと、きばっとった[#「きばっとった」に傍点]とじゃもの」
私は、あんまり長い小便にあいそをつかしながら、うんと力んで自分の股間《こかん》を覗いてみた。白いプクプクした小山の向うに、空と船が逆《さか》さに写っていた。私は首筋が痛くなるほど身を曲《かが》めた。白い小山の向うから霧を散らした尿《いばり》が、キラキラ光って桟橋をぬらしている。
「何しよるとじゃろ、墜《お》ちたら知らんぞ、ほら、お父さんが戻《もど》って来よるが」
「ほんまか?」
「ほんまよ」
股間を心地《ここち》よく海風が吹いた。
「くたびれなはったろう?」
母がこう叫ぶと、父は手拭で頭をふきながら、雁木の上の方から、私達を呼んだ。
「うどんでも食わんか?」
私は母の両手を握って振った。
「嬉しか! お父さん、山のごつ売ったとじゃろなア…………」
私達三人は、露店のバンコ[#「バンコ」に傍点]に腰をかけて、うどんを食べた。私の丼《どんぶり》の中には三角の油揚が這入っていた。
「どうしてお父さんのも、おッ母さんのも、狐《きつね》がはいっとらんと?」
「やかましいか! 子供は黙《だま》って食うがまし[#「まし」に傍点]……」
私は一片の油揚を父の丼の中へ投げ入れてニヤッと笑った。父は甘美《うま》そうにそれを食った。
「珍《めずら》しかとじゃろな、二三日|泊《とま》って見たらどうかな」
「初め、癈兵《はいへい》じゃろう云いよったが、風琴を鳴らして、ハイカラじゃ云う者もあった」
「ほうな、勇ましか曲をひとつふたつ、聴《き》かしてやるとよかったに……」
私は、残ったうどんの汁に、湯をゆらゆらついで長いこと乳のように吸った。
町には輪のように灯がついた。市場が近いのか、頭の上に平たい桶《おけ》を乗せた魚売りの女達が、「ばんより[#「ばんより」に傍点]! ばんより[#「ばんより」に傍点]はいりゃんせんか」と呼び売りしながら通って行く。
「こりゃ、まあ、面白かところじゃ、汽車で見たりゃ、寺がおそろしく多かったが、漁師も多かもん、薬も売れようたい」
「ほんに、おかしか」
父は、白い銭をたくさん数えて母に渡した。
「のう……章魚の足が食いたかア」
「また、あげんこツ! お父さんな、怒《おこ》んなさって、風琴ば海さ捨てる云いなはるばい」
「また、何、ぐず[#「ぐず」に傍点]っちょるとか!」
父は、豆手帳の背中から鉛筆《えんぴつ》を抜《ぬ》いて、薬箱の中と照し合せていた。
5 夜になると、夜桜を見る人で山の上は群った蛾《が》のように賑《にぎ》わった。私達は、駅に近い線路ぎわのはたご[#「はたご」に傍点]に落ちついて、汗ばんだまま腹這っていた。
「こりゃもう、働きどう[#「働きどう」に傍点]の多い町らしいぞ、桜を見ようとてお前、どこの町であぎゃん賑おうとったか?」
「狂人どう[#「狂人どう」に傍点]が、何が桜かの、たまげたものじゃ」
別に気も浮かぬと云った風に、風呂敷包みをときながら、母はフンと鼻で笑った。
「ほう、お前も立って、ここへ来てみいや、綺麗かぞ」
煤《すす》けた低い障子《しょうじ》を開けて、父は汚れたメリヤスのパッチをぬぎながら、私を呼んだ。
「寿司《すし》ば食いとうなるけに、見とうはなか……」
私は立とうともしなかった。母はクックッと笑っていた。腫物《はれもの》のようにぶわぶわした畳《たたみ》の上に腹這って、母から読本《とくほん》を出してもらうと、私は大きい声を張りあげて、「ほごしょく」の一部を朗読し始めた。母は、私が大きい声で、すらすらと本を読む事が、自慢《じまん》ででもあるのであろう。「ふん、そうかや」と、度々優しく返事をした。
「百姓《ひゃくしょう》は馬鹿《ばか》だな、尺取虫《しゃくとりむし》に土瓶《どびん》を引っかけるてかい?」
「尺取虫が木の枝《えだ》のごつあるからじゃろ」
「どぎゃん虫かなア」
「田舎《いなか》へ行くとよくある虫じゃ」
「ふん、長いとじゃろ?」
「蚕《かいこ》のごつ[#「ごつ」に傍点]ある」
「お父さん、ほんまに見たとか?」
「ほんまよ」
汚点《しみ》だらけな壁に童子のような私の影が黒く写った。風が吹き込《こ》むたび、洋燈《ランプ》のホヤの先きが燃え上って、誰《だれ》か「雨が近い」と云いながら町を通っている。
「まあ、こんな臭か部屋《へや》、なんぼう[#「なんぼう」に傍点]にきめなはった?」
「泊るだけでよかもの、六拾銭たい」
「たまげたなア、旅はむごいものじゃ」
あんまり静かなので、波の音が腹に這入って来るようだ。蒲団《ふとん》は一組で三枚、私はいつものように、読本を持ったまま、沈黙《だま》って裾へはいって横になった。
「おッ母さん! もう晩な、何も食わんとかい?」
「もう、何ちゃいらんとッ、蒲団にはいったら、寝《ね》ないかんとッ」
「うどんば、食べたじゃろが? 白か銭ばたくさん持っちょって、何も買うてやらんげに思うちょるが、宿屋も払うし、薬の問屋《とんや》へも払うてしまえば、あの白か銭は、のう[#「のう」に傍点]なってしまうがの、早よ寝て、早よ起きい、朝いなったら、白かまんま[#「まんま」に傍点]いっぱい食べさすッでなア」
座蒲団を二つに折って私の裾にさしあってはいると、父はこう云った。私は、白かまんま[#「白かまんま」に傍点]と云う言葉を聞くと、ポロポロと涙があふれた。
「背丈《せたけ》が伸《の》びる頃《ころ》ちうて、あぎゃん食いたかものじゃろうかなア」
「早よウ、きまって飯が食えるようにならな、何か、よか仕事はなかじゃろか」
父も母も、裾に寝ている私が、泪《なみだ》を流していると云う事は知らぬ気であった。
「あれも、本ばよう[#「よう」に傍点]読みよるで、どこかきまったりゃ、学校さあげてやりたか」
「明日、もう一日売れたりゃ、ここへ坐《すわ》ってもええが……」
「ここはええところじゃ、駅へ降りた時から、気持ちが、ほんまによかった。ここは何ちうてな?」
「尾《お》の道《みち》よ、云うてみい」
「おのみち[#「おのみち」に傍点]、か?」
「海も山も近い、ええところじゃ」
母は立って洋燈を消した。
6 この家の庭には、石榴《ざくろ》の木が四五本あった。その石榴の木の下に、大きい囲いの浅い井戸《いど》があった。二階の縁《えん》の障子をあけると、その石榴の木と井戸が真下に見えた。井戸水は塩分を多分に含《ふく》んで、顔を洗うと、ちょっと舌が塩っぱかった。水は二階のはんど[#「はんど」に傍点]甕《がめ》の中へ、二日分位|汲《く》み入れた。縁側には、七輪や、馬穴《バケツ》や、ゆきひら[#「ゆきひら」に傍点]や、鮑《あわび》の植木鉢《うえきばち》や、座敷《ざしき》は六|畳《じょう》で、押入れもなければ床《とこ》の間《ま》もない。これが私達三人の落ちついた二階借りの部屋の風景である。
朝になると、借りた蒲団の上に白い風呂敷を掛けた。
階下は、五十位の夫婦者《ふうふもの》で、古ぼけた俥《くるま》をいつも二台ほど土間に置いていた。おじさんが、俥をひっぱった姿は見た事はないが、誰かに貸すのででもあろう、時々、一台の俥が消える時がある。おばさんは毎日、石榴の木の見える縁側で、白い昆布《こんぶ》に辻占《つじうら》を巻いて、帯を結ぶ内職をしていた。
ここの台所は、いつも落莫《らくばく》として食物らしい匂《にお》いをかいだ事がない。井戸は、囲いが浅いので、よく猫《ねこ》や犬が墜《お》ちた。そのたび、おばさんは、禿《はげ》の多い鏡を上から照らして、深い井戸の中を覗いた。
「尾の道の町に、何か力があっとじゃろ、大阪《おおさか》までも行かいでよかった」
「大阪まで行っとれば、ほんのこて[#「こて」に傍点]今頃は苦労しよっとじゃろ」
この頃、父も母も、少し肥えたかのように、私の眼にうつった。
私は毎日いっぱい飯を食った。嬉しい日が続いた。
「腹が固うなるほど、食うちょれ、まんま[#「まんま」に傍点]さえ食うちょりゃ、心配なか」
「のう――おッ母さん! 階下のおばさんたち、飯食うちょるじゃろか?」
「どうして? 食うちょらな動けんがの」
「ほんでも、昨夜な、便所へはいっちょったら、おじさんが、おばさんに、俥も持って行かせ、俺《おれ》はこのまま死んだ方がまし[#「まし」に傍点]、云うてな、泣きよんなはった」
「ほうかや! あの俥も金貸しにばし、取られなはったとじゃろ」
「親類は、あっとじゃろか、飯食いなはるとこ、見たことなか」
「そぎゃんこツ云うもんじゃなかッ、階下のおじさんな、若い時船へ乗りよんなはって、機械で足ば折んなはったとオ、誰っちゃ見てくれんけん、おばさんが昆布巻きするきりで、食うて行きなはるとだい、可哀《かわい》そうだろうがや」
「警察へ行っても駄目《だめ》かや?」
「誰もそんな事知らんと云うて、皆《みな》、笑いまくるぞ」
「そんでも、悪いこつ[#「こつ」に傍点]すれば怒るだろう?」
「誰がや?」
「人の足折って、知らん顔しちょるもん[#「もん」に傍点]がよオ」
「金を持っちょるけに、かなわんたい」
「階下のおじさんな、馬鹿たれか?」
「何ば云よっとか!」
父は風琴と弁当を持って、一日中、「オイチニイ オイチニイ」と、町を流して薬を売って歩いた。
「漁師町に行ってみい、オイチニイの薬が来たいうて、皆出て来るけに」
「風体《ふうてい》が珍しかけにな」
長いこと晴れた日が続いた。
山では桜の花が散って、いっせいに四囲《あたり》が青ばんで来た。
遠くで初蛙《はつがえる》も啼《な》いた。白い除虫菊《じょちゅうぎく》の花も咲《さ》いた。
7 「学校へ行かんか?」
ある日、山の茶園で、薔薇《ばら》の花を折って来て石榴の根元に植えていたら、商売から帰った父が、井戸端《いどばた》で顔を洗いながら、私にこう云った。
「学校か? 十三にもなって、五年生にはいるものはなか[#「なか」に傍点]もの、行かぬ」
「学校へ行っとりゃ、ええことがあるに」
「六年生に入れてくれるかな?」
「沈黙《だま》っとりゃ、六年生でも入れようたい、よう読めるとじゃもの……」
「そんでも、算術はむずかしかろな?」
「ま、勉強せい、明日は連れて行ってやる」
学校に行けることは、不安なようで嬉しい事であった。その晩、胸がドキドキして、私は子供らしく、いつまでも瞼《まぶた》の裏に浮んで来る白い数字を数えていた。
十二時頃ででもあったであろうか、ウトウトしかけていると、裏の井戸で、重石《おもし》か何か墜ちたように凄《すさ》まじい水音がした。犬も猫も、井戸が深いので今までは墜ちこんでも嘗めるような水音しかしないのに、それは、聞き馴《な》れない大きい水音であった。
「おッ母さん! 何じゃろか?」
「起きとったか、何じゃろかのう……」
そう話しあっている時、また水をはねて、何か悲しげな叫び声があがった。階下のおじさんが、わめきながら座敷を這っている。
「あんた! 起きまっせ! 井戸ん中へ誰か墜ちたらしかッ」
「誰が?」
「起きて、早よう行ってくれまっせ、おばさんかも判らんけに……」
私は体がガタガタ震《ふる》えて、もう、ものが云えなかった。
「どぎゃんしたとじゃろか?」
「お前も一緒《いっしょ》に来いや、こまい[#「こまい」に傍点]者は寝とらんか
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