来るんぞ」
 石畳の上は、淡《あわ》い燈のあかりでぬるぬる光っていた。温い夜風が、皆の裾を吹いて行く。井戸の中には、幾本《いくほん》も縄がさがって「ううん、ううん」唸《うな》り声が湧いていた。
「早よう行って来ぬか! 何しよっとか?」
 私は、見当もつかない夜更《よふ》けの町へ出た。波と風の音がして、町中、腥《なまぐさ》い臭《にお》いが流れていた。小満《しょうまん》の季節らしく、三味線《しゃみせん》の音のようなものが遠くから聞えて来る。
 いつから、手を通していたのであろうか、首のところで、釦《ボタン》をとめて、私は父の道化《どうけ》た憲兵の服を着ていた。そのためだろうか、街角の医者の家を叩くと、俥夫《しゃふ》は寝呆《ねぼ》けて私がいまだかつて、聞いた事がないほどな丁寧《ていねい》な物言いで、いんぎん[#「いんぎん」に傍点]に小腰を曲めた。
「よろしうござりますとも、一時でありましょうとも、二時でありましょうとも、医者の役目でござります故、私さえ走るならば、先生も起きましょうし、じき、上りまするでござります」


 8 井戸へ墜ちたおばさんは、片手にびしょびしょの風呂敷包みを抱《だ》い
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