んまよ」
 汚点《しみ》だらけな壁に童子のような私の影が黒く写った。風が吹き込《こ》むたび、洋燈《ランプ》のホヤの先きが燃え上って、誰《だれ》か「雨が近い」と云いながら町を通っている。
「まあ、こんな臭か部屋《へや》、なんぼう[#「なんぼう」に傍点]にきめなはった?」
「泊るだけでよかもの、六拾銭たい」
「たまげたなア、旅はむごいものじゃ」
 あんまり静かなので、波の音が腹に這入って来るようだ。蒲団《ふとん》は一組で三枚、私はいつものように、読本を持ったまま、沈黙《だま》って裾へはいって横になった。
「おッ母さん! もう晩な、何も食わんとかい?」
「もう、何ちゃいらんとッ、蒲団にはいったら、寝《ね》ないかんとッ」
「うどんば、食べたじゃろが? 白か銭ばたくさん持っちょって、何も買うてやらんげに思うちょるが、宿屋も払うし、薬の問屋《とんや》へも払うてしまえば、あの白か銭は、のう[#「のう」に傍点]なってしまうがの、早よ寝て、早よ起きい、朝いなったら、白かまんま[#「まんま」に傍点]いっぱい食べさすッでなア」
 座蒲団を二つに折って私の裾にさしあってはいると、父はこう云った。私は、白かまん
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