ッ!」
 父は呶鳴《どな》りながら梯子段《はしごだん》を破るようにドンドン降りて行った。
 私一人になると、周囲から空気が圧して来た。私はたまらなくなって、雨戸を開き、障子を開けた。
 石榴の葉が、ツンツン豆の葉のように光って、山の上に盆《ぼん》のような朱い月が出ている。肌の上を何かついと走った。
「どぎゃん、したかアい!」
 思わず私は声をあげて下へ叫んでみた。
 母が、鏡と洋燈を持っているのが見えた。
「ハイ! この縄を一生懸命《いっしょうけんめい》握っとんなはい」
 父はこうわめきながら、縄の先を、真中《まんなか》の石榴の幹へ結んでいた。
「いま、うちで、はいりますにな、辛抱《しんぼう》して、縄へさばっ[#「さばっ」に傍点]といて下さいや」
 おろおろした母の声も聞えた。
「まさこ! 降りてこいよッ」
 父は覗いている私を見上げて呶鳴った。私は寒いので、父の、黄色い筋のはいった服を背中にひっかけると、転げるように井戸端へ降りて行った。縁側ではおじさんが「うはははははうはははははは」と、泡《あわ》を食ったような声で呶鳴っていた。
「ええ子じゃけに、医者へ走って行け、おとなしう云うて来るんぞ」
 石畳の上は、淡《あわ》い燈のあかりでぬるぬる光っていた。温い夜風が、皆の裾を吹いて行く。井戸の中には、幾本《いくほん》も縄がさがって「ううん、ううん」唸《うな》り声が湧いていた。
「早よう行って来ぬか! 何しよっとか?」
 私は、見当もつかない夜更《よふ》けの町へ出た。波と風の音がして、町中、腥《なまぐさ》い臭《にお》いが流れていた。小満《しょうまん》の季節らしく、三味線《しゃみせん》の音のようなものが遠くから聞えて来る。
 いつから、手を通していたのであろうか、首のところで、釦《ボタン》をとめて、私は父の道化《どうけ》た憲兵の服を着ていた。そのためだろうか、街角の医者の家を叩くと、俥夫《しゃふ》は寝呆《ねぼ》けて私がいまだかつて、聞いた事がないほどな丁寧《ていねい》な物言いで、いんぎん[#「いんぎん」に傍点]に小腰を曲めた。
「よろしうござりますとも、一時でありましょうとも、二時でありましょうとも、医者の役目でござります故、私さえ走るならば、先生も起きましょうし、じき、上りまするでござります」


 8 井戸へ墜ちたおばさんは、片手にびしょびしょの風呂敷包みを抱《だ》いて上って来た。その黒い風呂敷包みの中には繻子《しゅす》の鯨帯《くじらおび》と、おじさんが船乗り時代に買ったという、ラッコの毛皮の帽子がはいっていた。おばさんは、夜更けを待って、裏口から質屋へ行く途中《とちゅう》ででもあったのであろう。おばさんの帯の間から質屋の通いがおちた。母は「このひとも苦労しなはる」と、思ったのか、その通いを、医者の見ぬように隠《かく》した。
「あぶないところであった」
「よかりましょうか?」
「打身をしとらぬから、血の道さえおこらねば、このままでよろしかろ」
 一度は食べてみたいと思ったおばさんの、内職の昆布が、部屋の隅に散乱していた。五ツ六ツ私は口に入れた。山椒《さんしょう》がヒリッと舌をさした。
「生きてあがったとじゃから、井戸|浚《さら》えもせんでよかろ」

 朝、その水で私達は口をガラガラ嗽《すす》いだ。井戸の中には、おばさんの下駄《げた》が浮いていた。私は禿《は》げた鏡を借りて来て、井戸の中を照らしながら、下駄を笊《ざる》で引きあげた。母は、石囲いの四ツ角に、小さい盛塩《もりじお》をして「オンバラジャア、ユウセイソワカ」と掌を合しておがんだ。
 曇《くも》り日で、雨らしい風が吹いている。
 父は、着物の上から、下のおじさんの汚れた小倉《こくら》の袴《はかま》をはいて、私を連れて、山の小学校へ行った。
 小学校へ行く途中、神武天皇を祭った神社があった。その神社の裏に陸橋があって、下を汽車が走っていた。
「これへ乗って行きゃア、東京まで、沈黙《だま》っちょっても行けるんぞ」
「東京から、先の方は行けんか?」
「夷《えびす》の住んどるけに、女子供は行けぬ」
「東京から先は海か?」
「ハテ、お父さんも行ったこたなかよ」
 随分《ずいぶん》、石段の多い学校であった。父は石段の途中で何度も休んだ。学校の庭は沙漠《さばく》のように広かった。四隅《よすみ》に花壇《かだん》があって、ゆすらうめ[#「ゆすらうめ」に傍点]、鉄線蓮《てっせんれん》、おんじ[#「おんじ」に傍点]、薊《あざみ》、ルピナス、躑躅《つつじ》、いちはつ[#「いちはつ」に傍点]、などのようなものが植えてあった。
 校舎の上には、山の背が見えた。振り返ると、海が霞《かす》んで、近くに島がいくつも見えた。
「待っとれや」
 父は、袴の結び紐《ひも》の上に手を組んで、教員室の白い門の中へはい
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