って行った。――よっぽど柳には性のあった土地と見えて、この庭の真中にも、柔かい芽を出した大きい、柳の木が一本、羊のようにフラフラ背を揺《ゆす》っていた。
 廻旋木《かいせんぼく》にさわってみたり、遊動円木に乗ってみたり、私は新しい学校の匂いをかいだ。だが、なぜか、うっとうしい気持ちがしていた。このまま走って、石段を駈《か》け降りようかと、学校の門の外へ出たが、父が、「ヨオイ!」と私を呼んだので、私は水から上った鳥のように身震いして教員室の門をくぐった。
 教員室には、二列になって、カナリヤの巣《す》のような小さい本箱が並んでいた。真中に火鉢があった。そこに、父と校長が並んでいた。父は、私の顔を見ると、いんぎん[#「いんぎん」に傍点]におじぎをした。だから、私も、おじぎをしなければならないのだろうと、丁寧に最敬礼をした。校長は満足気であった。
「教室へ連れて行きましょう」
「ほんなら、私はこれで失礼いたします。何ともハヤ、よろしくお願い申し上げます」
 父が門から去ると私は悲しくなった。校長は背の高い人であった。私はどこかの学校で覚えた、「七尺|下《さが》って師の影を踏《ふ》まず」と、云う言葉を思い出したので、遠くの方から、校長の後へついて行った。
「道草食わずと、早よウ歩かんか!」
 校長は振り返って私を叱った。窓の外のポンプ井戸の水溜《みずたま》りで、何かカロカロ……鳴いていた。
 雨戸のような歪《ゆが》んだ扉《とびら》を開けると、ワアンと子供達の息が私にかかった。(女子六年 イ組)と、黒板の上に札《ふだ》が下っていた。私は五年を半分飛ばして六年にあがる事が出来た。ちょっと不安であった。


 9 長い間雨が続いた。
 私はだんだん学校へ行く事が厭《いや》になった。学校に馴れると、子供達は、寄ってたかって私の事を「オイチニイの新馬鹿大将の娘じゃ」と、云った。
 私はチャップリンの新馬鹿大将と、父の姿とは、似つかないものだと思っていた。それ故、私は、いつか、父にその話をしようと思ったが、父は長い雨で腐り切っていた。
 黄色い粟飯《あわめし》が続いた。私は飯を食べるごとに、厩《うまや》を聯想《れんそう》しなければならなかった。私は学校では、弁当を食べなかった。弁当の時間は唱歌室にはいってオルガンを鳴らした。私は、父の風琴の譜《ふ》で、オルガンを上手に弾《ひ》いた。
 私は、言葉が乱暴なので、よく先生に叱られた。先生は、三十を過ぎた太った女のひとであった。いつも前髪の大きい庇《ひさし》から、雑巾《ぞうきん》のような毛束《けたば》を覗かしていた。
「東京語をつかわねばなりませんよ」
 それで、みんな、「うちはね」と云う美しい言葉を使い出した。
 私は、それを時々失念して、「わしはね」と、云っては皆に嘲笑《ちょうしょう》された。学校へ行くと、見た事もない美しい花と、石版絵がたくさん見られて楽しみであったが、大勢の子供達は、いつまでたっても、私に対して、「新馬鹿大将」を止《や》めなかった。
「もう学校さ行きとうはなか?」
「小学校だきゃ出とらんな、おッ母さんば見てみい、本も読めんけん、いつもかつも、眠《ねむ》っとろうがや」
「ほんでも、うるそ[#「うるそ」に傍点]うして……」
「何がうるさ[#「うるさ」に傍点]かと?」
「云わん!」
「云わんか?」
「云いとうはなか!」
 刀で剪《き》りたくなるほど、雨が毎日毎日続いた。階下のおばさんは、毎日昆布の中に辻占と山椒を入れて帯を結んでいた。もう、黄いろいご飯も途絶え勝ちになった。母は、階下のおばさんに荷札に針金を通す仕事を探してもらった。父と母と競争すると母の方が針金を通すのは上手であった。
 私は学校へ行くふり[#「ふり」に傍点]をして学校の裏の山へ行った。ネルの着物を通して山肌がくんくん匂っている。雨が降って来ると、風呂敷で頭をおおうて、松《まつ》の幹に凭れて遊んだ。
 天気のいい日であった。山へ登って、萩《はぎ》の株の蔭《かげ》へ寝ころんでいたら、体操の先生のように髪を長くした男が、お梅《うめ》さんと云う米屋の娘と遊んでいた。恥《は》ずかしい事だと思ったのか私は山を降りた。真珠色《しんじゅいろ》に光った海の色が、チカチカ眼をさした。

 父と母が、「大阪の方へ行ってみるか」と云う風な事をよく話しだした。私は、大阪の方へ行きたくないと思った。いつの間にか、父の憲兵服も無くなっていた。だから風琴がなくなった時の事を考えると、私は胸に塩が埋《うま》ったようで悲しかった。
「俥でも引っぱってみるか?」
 父が、腐り切ってこう云った。その頃、私は好きな男の子があったので、なんぼう[#「なんぼう」に傍点]にもそれは恥ずかしい事であった。その好きな男の子は、魚屋のせがれ[#「せがれ」に傍点]であった
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