ど」に傍点]甕《がめ》の中へ、二日分位|汲《く》み入れた。縁側には、七輪や、馬穴《バケツ》や、ゆきひら[#「ゆきひら」に傍点]や、鮑《あわび》の植木鉢《うえきばち》や、座敷《ざしき》は六|畳《じょう》で、押入れもなければ床《とこ》の間《ま》もない。これが私達三人の落ちついた二階借りの部屋の風景である。
 朝になると、借りた蒲団の上に白い風呂敷を掛けた。
 階下は、五十位の夫婦者《ふうふもの》で、古ぼけた俥《くるま》をいつも二台ほど土間に置いていた。おじさんが、俥をひっぱった姿は見た事はないが、誰かに貸すのででもあろう、時々、一台の俥が消える時がある。おばさんは毎日、石榴の木の見える縁側で、白い昆布《こんぶ》に辻占《つじうら》を巻いて、帯を結ぶ内職をしていた。
 ここの台所は、いつも落莫《らくばく》として食物らしい匂《にお》いをかいだ事がない。井戸は、囲いが浅いので、よく猫《ねこ》や犬が墜《お》ちた。そのたび、おばさんは、禿《はげ》の多い鏡を上から照らして、深い井戸の中を覗いた。
「尾の道の町に、何か力があっとじゃろ、大阪《おおさか》までも行かいでよかった」
「大阪まで行っとれば、ほんのこて[#「こて」に傍点]今頃は苦労しよっとじゃろ」
 この頃、父も母も、少し肥えたかのように、私の眼にうつった。
 私は毎日いっぱい飯を食った。嬉しい日が続いた。
「腹が固うなるほど、食うちょれ、まんま[#「まんま」に傍点]さえ食うちょりゃ、心配なか」
「のう――おッ母さん! 階下のおばさんたち、飯食うちょるじゃろか?」
「どうして? 食うちょらな動けんがの」
「ほんでも、昨夜な、便所へはいっちょったら、おじさんが、おばさんに、俥も持って行かせ、俺《おれ》はこのまま死んだ方がまし[#「まし」に傍点]、云うてな、泣きよんなはった」
「ほうかや! あの俥も金貸しにばし、取られなはったとじゃろ」
「親類は、あっとじゃろか、飯食いなはるとこ、見たことなか」
「そぎゃんこツ云うもんじゃなかッ、階下のおじさんな、若い時船へ乗りよんなはって、機械で足ば折んなはったとオ、誰っちゃ見てくれんけん、おばさんが昆布巻きするきりで、食うて行きなはるとだい、可哀《かわい》そうだろうがや」
「警察へ行っても駄目《だめ》かや?」
「誰もそんな事知らんと云うて、皆《みな》、笑いまくるぞ」
「そんでも、悪いこつ[#「こつ」に傍点]すれば怒るだろう?」
「誰がや?」
「人の足折って、知らん顔しちょるもん[#「もん」に傍点]がよオ」
「金を持っちょるけに、かなわんたい」
「階下のおじさんな、馬鹿たれか?」
「何ば云よっとか!」

 父は風琴と弁当を持って、一日中、「オイチニイ オイチニイ」と、町を流して薬を売って歩いた。
「漁師町に行ってみい、オイチニイの薬が来たいうて、皆出て来るけに」
「風体《ふうてい》が珍しかけにな」

 長いこと晴れた日が続いた。
 山では桜の花が散って、いっせいに四囲《あたり》が青ばんで来た。
 遠くで初蛙《はつがえる》も啼《な》いた。白い除虫菊《じょちゅうぎく》の花も咲《さ》いた。


 7 「学校へ行かんか?」
 ある日、山の茶園で、薔薇《ばら》の花を折って来て石榴の根元に植えていたら、商売から帰った父が、井戸端《いどばた》で顔を洗いながら、私にこう云った。
「学校か? 十三にもなって、五年生にはいるものはなか[#「なか」に傍点]もの、行かぬ」
「学校へ行っとりゃ、ええことがあるに」
「六年生に入れてくれるかな?」
「沈黙《だま》っとりゃ、六年生でも入れようたい、よう読めるとじゃもの……」
「そんでも、算術はむずかしかろな?」
「ま、勉強せい、明日は連れて行ってやる」
 学校に行けることは、不安なようで嬉しい事であった。その晩、胸がドキドキして、私は子供らしく、いつまでも瞼《まぶた》の裏に浮んで来る白い数字を数えていた。
 十二時頃ででもあったであろうか、ウトウトしかけていると、裏の井戸で、重石《おもし》か何か墜ちたように凄《すさ》まじい水音がした。犬も猫も、井戸が深いので今までは墜ちこんでも嘗めるような水音しかしないのに、それは、聞き馴《な》れない大きい水音であった。
「おッ母さん! 何じゃろか?」
「起きとったか、何じゃろかのう……」
 そう話しあっている時、また水をはねて、何か悲しげな叫び声があがった。階下のおじさんが、わめきながら座敷を這っている。
「あんた! 起きまっせ! 井戸ん中へ誰か墜ちたらしかッ」
「誰が?」
「起きて、早よう行ってくれまっせ、おばさんかも判らんけに……」
 私は体がガタガタ震《ふる》えて、もう、ものが云えなかった。
「どぎゃんしたとじゃろか?」
「お前も一緒《いっしょ》に来いや、こまい[#「こまい」に傍点]者は寝とらんか
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