に吸った。
 町には輪のように灯がついた。市場が近いのか、頭の上に平たい桶《おけ》を乗せた魚売りの女達が、「ばんより[#「ばんより」に傍点]! ばんより[#「ばんより」に傍点]はいりゃんせんか」と呼び売りしながら通って行く。
「こりゃ、まあ、面白かところじゃ、汽車で見たりゃ、寺がおそろしく多かったが、漁師も多かもん、薬も売れようたい」
「ほんに、おかしか」
 父は、白い銭をたくさん数えて母に渡した。
「のう……章魚の足が食いたかア」
「また、あげんこツ! お父さんな、怒《おこ》んなさって、風琴ば海さ捨てる云いなはるばい」
「また、何、ぐず[#「ぐず」に傍点]っちょるとか!」
 父は、豆手帳の背中から鉛筆《えんぴつ》を抜《ぬ》いて、薬箱の中と照し合せていた。


 5 夜になると、夜桜を見る人で山の上は群った蛾《が》のように賑《にぎ》わった。私達は、駅に近い線路ぎわのはたご[#「はたご」に傍点]に落ちついて、汗ばんだまま腹這っていた。
「こりゃもう、働きどう[#「働きどう」に傍点]の多い町らしいぞ、桜を見ようとてお前、どこの町であぎゃん賑おうとったか?」
「狂人どう[#「狂人どう」に傍点]が、何が桜かの、たまげたものじゃ」
 別に気も浮かぬと云った風に、風呂敷包みをときながら、母はフンと鼻で笑った。
「ほう、お前も立って、ここへ来てみいや、綺麗かぞ」
 煤《すす》けた低い障子《しょうじ》を開けて、父は汚れたメリヤスのパッチをぬぎながら、私を呼んだ。
「寿司《すし》ば食いとうなるけに、見とうはなか……」
 私は立とうともしなかった。母はクックッと笑っていた。腫物《はれもの》のようにぶわぶわした畳《たたみ》の上に腹這って、母から読本《とくほん》を出してもらうと、私は大きい声を張りあげて、「ほごしょく」の一部を朗読し始めた。母は、私が大きい声で、すらすらと本を読む事が、自慢《じまん》ででもあるのであろう。「ふん、そうかや」と、度々優しく返事をした。
「百姓《ひゃくしょう》は馬鹿《ばか》だな、尺取虫《しゃくとりむし》に土瓶《どびん》を引っかけるてかい?」
「尺取虫が木の枝《えだ》のごつあるからじゃろ」
「どぎゃん虫かなア」
「田舎《いなか》へ行くとよくある虫じゃ」
「ふん、長いとじゃろ?」
「蚕《かいこ》のごつ[#「ごつ」に傍点]ある」
「お父さん、ほんまに見たとか?」
「ほんまよ」
 汚点《しみ》だらけな壁に童子のような私の影が黒く写った。風が吹き込《こ》むたび、洋燈《ランプ》のホヤの先きが燃え上って、誰《だれ》か「雨が近い」と云いながら町を通っている。
「まあ、こんな臭か部屋《へや》、なんぼう[#「なんぼう」に傍点]にきめなはった?」
「泊るだけでよかもの、六拾銭たい」
「たまげたなア、旅はむごいものじゃ」
 あんまり静かなので、波の音が腹に這入って来るようだ。蒲団《ふとん》は一組で三枚、私はいつものように、読本を持ったまま、沈黙《だま》って裾へはいって横になった。
「おッ母さん! もう晩な、何も食わんとかい?」
「もう、何ちゃいらんとッ、蒲団にはいったら、寝《ね》ないかんとッ」
「うどんば、食べたじゃろが? 白か銭ばたくさん持っちょって、何も買うてやらんげに思うちょるが、宿屋も払うし、薬の問屋《とんや》へも払うてしまえば、あの白か銭は、のう[#「のう」に傍点]なってしまうがの、早よ寝て、早よ起きい、朝いなったら、白かまんま[#「まんま」に傍点]いっぱい食べさすッでなア」
 座蒲団を二つに折って私の裾にさしあってはいると、父はこう云った。私は、白かまんま[#「白かまんま」に傍点]と云う言葉を聞くと、ポロポロと涙があふれた。
「背丈《せたけ》が伸《の》びる頃《ころ》ちうて、あぎゃん食いたかものじゃろうかなア」
「早よウ、きまって飯が食えるようにならな、何か、よか仕事はなかじゃろか」
 父も母も、裾に寝ている私が、泪《なみだ》を流していると云う事は知らぬ気であった。
「あれも、本ばよう[#「よう」に傍点]読みよるで、どこかきまったりゃ、学校さあげてやりたか」
「明日、もう一日売れたりゃ、ここへ坐《すわ》ってもええが……」
「ここはええところじゃ、駅へ降りた時から、気持ちが、ほんまによかった。ここは何ちうてな?」
「尾《お》の道《みち》よ、云うてみい」
「おのみち[#「おのみち」に傍点]、か?」
「海も山も近い、ええところじゃ」
 母は立って洋燈を消した。


 6 この家の庭には、石榴《ざくろ》の木が四五本あった。その石榴の木の下に、大きい囲いの浅い井戸《いど》があった。二階の縁《えん》の障子をあけると、その石榴の木と井戸が真下に見えた。井戸水は塩分を多分に含《ふく》んで、顔を洗うと、ちょっと舌が塩っぱかった。水は二階のはんど[#「はん
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