るやうな、媒介物もみあたらない。廣太郎はいつそ、この職業を捨ててしまつて、他に何か新しい職業をみつけてみようかとも考へてゐた。
 一生涯、人の山林を歩き、人の邸のなかをのぞいて値ぶみをして歩くことは、自分の生涯の主軸としてはなさけない氣持がしてならなかつた。よしツ! 俺は何かやらう‥‥酒の力をかりて、時には明日にでも、現在の職業から離れ得る自信に滿々とした思ひを持ちながら、家へかへつて來ると、妻や子供のうす汚なさに引きずられて、ずるずると他愛もなく無爲な歳月が過ぎていつてしまふ。

 八重子が廣太郎の前へ現れたのは、丁度、こんな時分であつた。――八重子は、銀座裏の酒場の女給をしてゐて、年は二十三だと云つてゐた。千葉の女で、まだ田舍から出て來たばかりらしく、着物のこのみも、化粧のしかたも土くさい感じだつたが、八重子は非常におとなしかつたので、荒んでゐる廣太郎の興味をそゝつた。
 八重子は芝の三田小山町に弟と二人で、二階借りをして住んでゐた。弟は晝間は會社の給仕をしてゐて夜は夜學に行つてゐる樣子である。――自分の生活が、八重子とのさゝやかな戀愛で、こんなに明るく燃えあがらうとは思はなかつた
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