殺でもするのではないかとも思へ、寒いものが背筋を走つた。死ぬるのだつたら子供だけは置いて逝つてくれと云つた、男の勝手きはまる想念が、意地惡く廣太郎の胸の中を走りまはつてゐる。
 だが、本當に、あの女が死んでしまつたとなると、自分はこんな氣持で平然とつゝ立つてはゐないかも知れない。
 何かしら瞼が熱くなつて來て仕方がなかつた。たいした幸福なおもひもさせなかつた妻に對して、ぴしぴしと苛責を受けてゐるやうな切なさがあり、子供へ會ひたい思ひが、まるで炎のやうに一日ぢゆう、目のさきにちらちらして仕方がなかつた。
 昨夜、寢卷姿で夜更けまで、家の中をきちんと整理して、今朝は早々と、廣太郎は雨の中を久しぶりに會社へ出掛けて行つた。
 病氣屆を出しておいたので、見舞を云つてくれる同僚もゐたりして、廣太郎は妙になさけない氣持だつたが、をかしいことには退屈ないまの仕事に、何と云ふことなく新しい元氣が湧いて來つゝある事だつた。不思議なことには、いままでよりも一級上の椅子に、廣太郎の位置がかはつてゐる。月給も少しばかりだつたが上つてゐた。
 廣太郎は、掛け心地のいゝ、革の椅子にどかつと腰を降ろして、ふつと、や
前へ 次へ
全24ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング