殺でもするのではないかとも思へ、寒いものが背筋を走つた。死ぬるのだつたら子供だけは置いて逝つてくれと云つた、男の勝手きはまる想念が、意地惡く廣太郎の胸の中を走りまはつてゐる。
だが、本當に、あの女が死んでしまつたとなると、自分はこんな氣持で平然とつゝ立つてはゐないかも知れない。
何かしら瞼が熱くなつて來て仕方がなかつた。たいした幸福なおもひもさせなかつた妻に對して、ぴしぴしと苛責を受けてゐるやうな切なさがあり、子供へ會ひたい思ひが、まるで炎のやうに一日ぢゆう、目のさきにちらちらして仕方がなかつた。
昨夜、寢卷姿で夜更けまで、家の中をきちんと整理して、今朝は早々と、廣太郎は雨の中を久しぶりに會社へ出掛けて行つた。
病氣屆を出しておいたので、見舞を云つてくれる同僚もゐたりして、廣太郎は妙になさけない氣持だつたが、をかしいことには退屈ないまの仕事に、何と云ふことなく新しい元氣が湧いて來つゝある事だつた。不思議なことには、いままでよりも一級上の椅子に、廣太郎の位置がかはつてゐる。月給も少しばかりだつたが上つてゐた。
廣太郎は、掛け心地のいゝ、革の椅子にどかつと腰を降ろして、ふつと、やつれ果てた妻の顏をおもひ出してゐた。さゝやかなよろこびだけれど、ふじ子が一番よろこんでくれさうな氣がして來る。
二三日たつてから、廣太郎はふじ子からの手紙を手にした。
[#ここから1字下げ]
――おかへんなさい。姫路の家から、お歸りを知らせて來ました。お元氣ですか。
私たちもおかげさまで元氣でをります。同封の寫眞のやうになりました。
秋までこゝにゐようとぞんじます。
私は、いままでの生活に再び戻つてゆける自信はありません。何も知らない、平凡な妻であつた私に、あなたはおもひがけないところで、私に何百燭光と云ふ燈火をつけて下さつたやうなものです。子供もこゝがいゝと云つてゐます。私は久しぶりに、女學生のやうな昔の生々しさにかへりました。子供は私が養育したいとおもひます。生意氣なやうですけれども、子供たちも、もう、すつかり、この海邊の生活になついてしまつて東京へ歸らうとは申しません。どうぞお元氣でゐて下さい。籍の方はいつでも御自由に拔いて下さいまし。新しい奧さまをお迎へになつて、いゝ生活をなさいますやうに。いまは昔のやうな怨嫉つゆほどもなく、私も新しく生々と生活してをります。子供の着替へと、
前へ
次へ
全12ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング