美しい犬
林芙美子

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)びょうぶ[#「びょうぶ」に傍点]
−−

 遠いところから北風が吹きつけている。ひどい吹雪だ。湖はもうすっかり薄氷をはって、誰も舟に乘っているものがない。
 ペットは湖畔に出て、さっきからほえたてていた。ペットはモオリスさんの捨犬で、いつも、モオリスさんの別莊のポーチで暮らしている。野尻湖畔のモオリスさんの別莊へ來た時は、ペットはまだ色つやのいい、たくましいからだつきをしていた。
 モオリスさんは、戰爭最中に、アメリカへ一家族でかえってしまった。ペットは柏原の荒物屋にお金をつけてもらわれて來たのだけれども一週間もすると、つながれた鎖をもぎはなして、ペットは野尻へ逃げていってしまった。それからは、モオリスさんのおとなりにいた白系露人のガブラシさんに、かわいがられて暮らしていたのだけれど終戰と同時に、ガブラシさんも一家族で横濱へいってしまった。
 ペットはガブラシさんにも別れて、食べものもなく、すっかり、昔の美しい毛なみをうしなって、よろよろと野尻の湖畔を野良犬になって暮らしていた。
 ペットはポインターの雜種で、茶色の大きい犬だった。好きな主人にはなれ、その次のガブラシさんにもはなれて、いままでのたのしい、きそくだった生活からはなれて、だんだんからだが弱くなっていった。
 冬になると、モオリスさんは、東京の麻布の家で、ペットをストーヴのそばにおいてくれたものだけれど、そして、野尻でも、ガブラシさんは冬になると、いつもストーヴのそばにペットを寢かせてくれたけれども、終戰になって、ペットの好きな人がだれもいなくなってしまうと、ペットははじめての冬を、ほんとに哀れなかっこうで暮らさなければならなかった。
 疎開の人たちもまだ、あっちこっちの別莊に殘ってはいたけれど、ペットを飼ってくれるような、親切なひとは一人もいなかった。ペットは、時たま野尻の町をあるいて、家々の臺所口からのぞいて、何かたべものはないかと、そこにいる人々にあわれみのこもった眼を向けるのだったけれども、誰も、しっ、しっと叱るだけで、ペットに食べ物をくれるひとは一人もない。
 それでも
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング