んは一人一人の男に就いては、出逢ひの時のみを考へるのが好きであつた。以前読んだ事のある伊勢物語風に、昔男ありけりと云ふ思ひ出をいつぱい心に溜めてゐるせゐか、きんは一人寝の寝床のなかで、うつらうつらと昔の男の事を考へるのは愉しみであつた。――田部からの電話はきんにとつては思ひがけなかつたし、上等の葡萄酒にでもお眼にかゝつたやうな気がした。田部は、思ひ出に吊られて来るだけだ。昔のなごりが少しは残つてゐるであらうかと言つた感傷で、恋の焼跡を吟味しに来るやうなものなのだ。草茫々の瓦礫の跡に立つて、只、あゝと溜息だけをつかせてはならないのだ。年齢や環境に聊さかの貧しさもあつてはならないのだ。慎み深い表情が何よりであり、雰囲気は二人でしみじみと没頭出来るやうなたゞよひでなくてはならない。自分の女は相変らず美しい女だつたと云ふ後味のなごりを忘れさせてはならないのだ。きんはとゞこほりなく身支度が済むと、鏡の前に立つて自分の舞台姿をたしかめる。万事抜かりはないかと……。茶の間へ行くと、もう、夕食の膳が出てゐる。薄い味噌汁と、塩昆布に麦飯を女中と差し向ひで食べると、あとは卵を破つて黄身をぐつと飲んでおく。
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