青年期にあつた男の恥ぢらひが少しもないのだ。金一封を出して戻つてもらひたい位だ。だが、きんは、眼の前にだらしなく酔つてゐる男に一銭の金も出すのは厭であつた。初々しい男に出してやる方がまだまし[#「まし」に傍点]である。自尊心のない男ほど厭なものはない。自分に血道をあげて来た男の初々しさをきんは幾度も経験してゐた。きんは、さうした男の初々しさに惹かれてゐたし、高尚なものにも思つてゐた。理想的な相手を選ぶ事以外に彼女の興味はない。きんは、心の中で、田部をつまらぬ男になりさがつたものだと思つた。戦死もしないで戻つて来た運の強さが、きんには運命を感じさせる。広島まで田部を追つて行つた、あの時の苦労だけで、もうこの男とは幕にすべきだつたと思ふのだつた。「何をじろじろ人の顔見てるンだ?」「あら、あなただつて、さつきから、私をじろじろ見てて何かいゝ気な事考へてゐたでせう?」「いや、何時逢つても美しいきんさんだと見惚れてゐたのさ……」「さう、私も、さうなの。田部さんは立派になつたと思つて……」「逆説だね」田部は、人殺しの空想をしてゐたのだと口まで出かけてゐるのをぐつとおさへて、逆説だねと逃げた。「貴方
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