は怖いわ。でも、昔の私の芸者時代の写真、戦地に送つて上げたでせう?」「どこかへおつことしちやつたなァ……」「それごらんなさい。私の方が、ずつと純だわ」
長火鉢のとりで[#「とりで」に傍点]は、仲々崩れそうにもない。田部は、もうすつかり酔つぱらつてしまつた。きんの前にあるグラスは、始めの一杯をついだまゝのが、まだ半分以上も残つてゐる。田部は冷たい茶を一気に呑んで、自分の写真を興味もなく横板の上に置いた。「電車、大丈夫?」「帰れやしないよ。このまゝ酔つぱらひを追ひ出すのかい」「えゝ、さう、ぽいと放り出しちやふわ。こゝは女の家で、近所がうるさいですからね」「近所? へえ、そンなもの君が気にするとは思はないな」「気にします」「旦那が来るの?」「まァ! 厭な田部さん、私、ぞつとしてしまつてよ。そンなこと言ふ貴方つてきらひッ!」「いゝさ。金が出来なきや、二三日帰れないンだ。こゝへ置いて貰ふかな……」きんは、両手で頬杖をついて、ぢいつと大きい眼を見はつて田部の白つぽい唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ。黙つて、眼の前にゐる男を吟味してゐる。昔のやうな、心のいろどりはもうお互ひに消えてしまつてゐる。
前へ
次へ
全34ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング