たせゐか、眼の前にゐるきんのおもかげが自分の皮膚の中に妙にしびれ込んで来る。手を触れる気もないくせに、きんとの昔が量感を持つて心に影をつくる。
 きんは立つて、押入れの中から、田部の学生時代の写真を一枚出して来た。「ほゝう、妙なもの持つてゐるンだね」「えゝ、すみ子のところにあつたのよ。貰つて来たの、これ、私と逢ふ前の頃のね。この頃の貴方つて貴公子みたいよ。紺飛白でいゝぢやない? 持つていらつしやいよ。奥さまにお見せになるといゝわ。綺麗ね。いやらしい事を言ふひとには見えませんね」「こんな時代もあつたンだね?」「ええ、さうよ。このまゝですくすくとそだつて行つたら、田部さんは大したものだつたのね?」「ぢやァ、すくすくとそだたなかつたつて言ふの?」「ええ、さう」「そりやァ、君のせゐだし、長い戦争もあつたしね」「あら、そンな事、こじつけだわ。そンな事は原因にならなくてよ。貴方つて、とても俗になつちやつた……」「へえ……俗にね。これが人間なンだよ」「でも、長い事、此写真を持ち歩いてゐた私の純情もいゝぢやァないの?」「多少は思ひ出もンだらうからね。僕にはくれなかつたね?」「私の写真?」「うん」「写真
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