た。板谷が来始めてから、きんの家は美しい花々の土産で賑はつた。――今日もカスタニアンと云ふ黄いろい薔薇がざくりと床の間の花瓶に差されてゐる。銀杏の葉、すこし零れてなつかしき、薔薇の園生の霜じめりかな。黄いろい薔薇は年増ざかりの美しさを思はせた。誰かの歌にある。霜じめりした朝の薔薇の匂ひが、つうんときんの胸に思ひ出を誘ふ。田部から電話がかゝつてみると、板谷よりも、きんは若い田部の方に惹かれてゐる事を悟る。広島では辛かつたけれども、あの頃の田部は軍人であつたし、あの荒々しい若さも今になれば無理もなかつた事だとつまされて嬉しい思ひ出である。激しい思ひ出ほど、時がたてば何となくなつかしいものだ。――田部が尋ねて来たのは五時を大分過ぎてからであつたが、大きな包みをさげて来た。包みの中から、ウイスキーや、ハムや、チーズなぞを出して、長火鉢の前にどつかと坐つた。もう昔の青年らしさはおもかげもない。灰色の格子の背広に、黒つぽいグリンのズボンをはいてゐるのは如何にも此時代の機械屋さんと云つた感じだつた。「相変らず綺麗だな」「さう、有難う、でも、もう駄目ね」「いや、うちの細君より色つぽい」「奥さまお若いン
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