放してしまつた。全くの無為徒食であつたが、女中のきぬは義妹の世話であつたが唖の女である。きんは、暮しも案外つゝましくしてゐた。映画や芝居を見たいと云ふ気もなかつたし、きんは何の目的もなくうろうろと外出する事はきらひであつた。天日にさらされた時の自分の老いを人目に見られるのは厭であつた。明るい太陽の下では、老年の女のみじめさをようしやなく見せつけられる。如何なる金のかゝつた服飾も天日の前では何の役にもたゝない。陽蔭の花で暮す事に満足であつたし、きんは趣味として小説本を読む事が好きであつた。養女を貰つて老後の愉しみを考へてはと云はれる事があつても、きんは老後なぞと云ふ思ひが不快であつたし、今日まで孤独で来た事も、きんには一つの理由があるのだつた。――きんは両親がなかつた。秋田の本庄近くの小砂川の生れだと云ふ事だけが記憶にあつて、五ツ位の時に東京に貰はれて、相沢の姓を名乗り、相沢家の娘としてそだつた。相沢久次郎と云ふのが養父であつたが、土木事業で大連に渡つて行き、きんが小学校の頃から、この養父は大連へ行きつぱなしで消息はないのである。養母のりつは仲々の理財家で、株をやつたり借家を建てたりして、その頃は牛込の藁店《わらだな》に住んでゐたが、藁店の相沢と云へば、牛込でも相当の金持ちとして見られてゐた。その頃神楽坂に辰井と云ふ古い足袋屋があつて、そこに、町子と云ふ美しい娘がゐた。この足袋屋は人形町のみやうが屋と同じやうに歴史のある家で、辰井の足袋と云へば、山の手の邸町でも相当の信用があつたものである。紺の暖簾を張つた広い店先きにミシンを置いて、桃割に結つた町子の黒襦子の襟をかけてミシンを踏んでゐるところは、早稲田の学生達にも評判だつたとみえて、学生達が足袋をあつらへに来ては、チップを置いて行くものもあると云ふ風評だつたが、この町子より五ツ六ツも若いきんも、町内では美しい少女として評判だつた。神楽坂には二人の小町娘として人々に云ひふらされてゐた。――きんが十九の頃、相沢の家も、合百《がふびやく》の鳥越と云ふ男が出入りするやうになつてから、家が何となくかたむき始め、養母のりつは酒乱のやうな癖がついて、長い事暗い生活が続いてゐたが、きんはふつとした冗談から鳥越に犯されてしまつた。きんはその頃、やぶれかぶれな気持ちで家を飛び出して、赤坂の鈴本と云ふ家から芸者になつて出た。辰井の町子は、丁度その頃、始めて出来た飛行機にふり袖姿で乗せて貰つて州崎の原に墜落したと云ふ事が新聞種になり、相当評判をつくつた。きんは、欣也と云ふ名前で芸者に出たが、すぐ、講談雑誌なんかに写真が載つたりして、しまひには、その頃流行のヱハガキになつたりしたものである。
いまから思へば、かうした事も、みんな遠い過去のことになつてしまつたけれども、きんは自分が現在五十歳を過ぎた女だとはどうしても合点がゆかなかつた。長く生きて来たものだと思ふ時もあつたが、また短い青春だつたと思ふ時もある。養母が亡くなつたあと、いくらもない家財は、きんの貰はれて来たあとに生れたすみ子と云ふ義妹にあつさり継がれてしまつてゐたので、きんは養家に対して何の責任もない躯になつてゐた。
きんが田部を知つたのは、すみ子夫婦が戸塚に学生相手の玄人下宿をしてゐる頃で、きんは、三年ばかり続いていた旦那と別れて、すみ子の下宿に一部屋を借りて気楽に暮してゐた。太平洋戦争が始つた頃である。きんはすみ子の茶の間で行きあふ学生の田部と知りあひ、親子ほども年の違ふ田部と、何時か人目を忍ぶ仲になつてゐた。五十歳のきんは、知らない人の目には三十七八位にしか見えない若々しさで、眉の濃いのが匂ふやうであつた。大学を卒業した田部はすぐ陸軍少尉で出征したのだけれども、田部の部隊はしばらく広島に駐在してゐた。きんは、田部を尋ねて二度ほど広島へ行つた。
広島へ着くなり、旅館へ軍服姿の田部が尋ねて来た。革臭い田部の体臭にきんはへきえきしながらも、二晩を田部と広島の旅館で暮した。はるばると遠い地を尋ねて、くたくたに疲れてゐたきんは、田部の逞ましい力にほんろうされて、あの時は死ぬやうな思ひだつたと人に告白して云つた。二度ほど田部を尋ねて広島に行き、その後田部から幾度電報が来ても、きんは広島へは行かなかつた。昭和十七年に田部はビルマへ行き、終戦の翌年の五月に復員して来た。すぐ上京して来て、田部は沼袋のきんの家を尋ねて来たが、田部はひどく老けこんで、前歯の抜けてゐるのを見たきんは昔の夢も消えて失望してしまつた。田部は広島の生れであつたが、長兄が代議士になつたとかで、兄の世話で自動車会社を起して、東京で一年もたゝない間に、見違へるばかり立派な紳士になつてきんの前に現はれ、近々に細君を貰ふのだと話した。それからまた一年あまり、きんは田部に逢ふ事もなかつた。
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