晩菊
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)死人《しびと》のやうに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いはれ[#「いはれ」に傍点]はないのだ。
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 夕方、五時頃うかゞひますと云ふ電話であつたので、きんは、一年ぶりにねえ、まァ、そんなものですかと云つた心持ちで、電話を離れて時計を見ると、まだ五時には二時間ばかり間がある。まづその間に、何よりも風呂へ行つておかなければならないと、女中に早目な、夕食の用意をさせておいて、きんは急いで風呂へ行つた。別れたあの時よりも若やいでゐなければならない。けつして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆつくりと湯にはいり、帰つて来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になつたガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赧くしびれて来た。五十六歳と云ふ女の年齢が胸の中で牙をむいてゐるけれども、きんは女の年なんか、長年の修業でどうにでもごまかしてみせると云つたきびしさで、取つておきのハクライのクリームで冷い顔を拭いた。鏡の中には死人《しびと》のやうに蒼ずんだ女の老けた顔が大きく眼をみはつてゐる。化粧の途中でふつと自分の顔に厭気がさして来たが、昔はヱハガキにもなつたあでやかな美しい自分の姿が瞼に浮び、きんは膝をまくつて、太股の肌をみつめた。むつくりと昔のやうに盛りあがつた肥りかたではなく、細い静脈の毛管が浮き立つてゐる。只、さう痩せてもゐないと云ふことが心やすめにはなる。ぴつちりと太股が合つてゐる。風呂では、きんは、きまつて、きちんと坐つた太股の窪みへ湯をそヽぎこんでみるのであつた。湯は、太股の溝へぢつと溜つてゐる。吻つとしたやすらぎがきんの老いを慰めてくれた。まだ、男は出来る。それだけが人生の力頼みのやうな気がした。きんは、股を開いて、そつと、内股の肌を人ごとのやうになでてみる。すべすべとして油になじんだ鹿皮のやうな柔らかさがある。西鶴の「諸国を見しるは伊勢物語」のなかに、伊勢の見物のなかに、三味を弾くおすぎ、たま、と云ふ二人の美しい女がゐて、三味を弾き鳴らす前に、真紅の網を張りめぐらせて、その網の目から二人の女の貌をねらつては銭を投げる遊びがあつたと云ふのを、きんは思ひ出して、紅の網を張つたと云ふ、その錦絵のやうな美しさが、いまの自分にはもう遠い過去の事になり果てたやうな気がしてならなかつた。若い頃は骨身に沁みて金慾に目が暮れてゐたものだけれども、年を取るにつれて、しかも、ひどい戦争の波をくぐり抜けてみると、きんは、男のない生活は空虚で頼りない気がしてならない。年齢によつて、自分の美しさも少しづつは変化して来ていたし、その年々で自分の美しさの風格が違つて来てゐた。きんは年を取るにしたがつて派手なものを身につける愚はしなかつた。五十を過ぎた分別のある女が、薄い胸に首飾りをしてみたり、湯もじにでもいゝやうな赤い格子縞のスカートをはいて、白サティンの大だぶだぶのブラウスを着て、つば広の帽子で額の皺を隠すやうな妙な小細工はきんはきらひだつた。それかと云つて、着物の襟裏から紅色をのぞかせるやうな女郎のやうないやらしい好みもきらひであつた。
 きんは、洋服は此時代になるまで一度も着た事はない。すつきりとした真白い縮緬の襟に、藍大島の絣の袷、帯は薄いクリーム色の白筋博多。水色の帯揚げは絶対に胸元にみせない事。たつぷりとした胸のふくらみをつくり、腰は細く、地腹は伊達巻で締めるだけ締めて、お尻にはうつすりと真綿をしのばせた腰蒲団をあてて西洋の女の粋な着つけを自分で考へ出してゐた。髪の毛は、昔から茶色だつたので、色の白い顔には、その髪の毛が五十を過ぎた女の髪とも思はれなかつた。大柄なので、裾みじかに着物を着るせゐか、裾もとがきりつとして、さっぱりしてゐた。男に逢ふ前は、かならずかうした玄人つぽい地味なつくりかたをして、鏡の前で、冷酒《ひやざけ》を五勺ほどきゆうとあふる。そのあとは歯みがきで歯を磨き、酒臭い息を殺しておく事もぬかりはない。ほんの少量の酒は、どんな化粧品をつかつたよりもきんの肉体には効果があつた。薄つすりと酔ひが発しると、眼もとが紅く染まり、大きい眼がうるんで来る。蒼つぽい化粧をして、リスリンでといたクリームでおさへた顔の艶が、息を吹きかへしたやうにさえざえして来る。紅だけは上等のダークを濃く塗つておく。紅いものと云へば唇だけである。きんは、爪を染めると云ふ事も生涯した事がない。老年になつてからの手はなほさら、そうした化粧はものほしげで貧弱でをかしいのである。乳液でまんべんなく手の甲を叩いておくだけで、爪は癇症なほど短く剪つて羅紗の裂《きれ》で磨いて置く。長襦袢の
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