――きんは、空襲の激しい頃、捨て値同様の値段で、現在の沼袋の電話つきの家を買ひ、戸塚から沼袋へ疎開してゐた。戸塚とは眼と鼻の近さでありながら、沼袋のきんの家は残り、戸塚のすみ子の家は焼けた。すみ子達が、きんのところへ逃げて来たけれども、きんは、終戦と同時にすみ子達を追ひ出してしまつた。尤も追ひ出されたすみ子も、戸塚の焼跡に早々と家を建てたので、かへつていまではきんに感謝してゐる有様でもあつた。今から思へば、終戦直後だつたので、安い金で家を建てる事が出来たのである。
きんも熱海の別荘を売つた。手取り三十万近い金がはいると、その金でぼろ家を買つては手入れをして三、四倍には売つた。きんは、金にあわてると云ふ事をしなかつた。金銭と云ふものは、あわてさへしなければすくすくと雪だるまのやうにふくらんでくれる利徳のあるものだと云ふ事を長年の修業で心得てゐた。高利よりは安い利まはりで固い担保を取つて人にも貸した。戦争以来、銀行をあまり信用しなくなつたきんは、なるべく金を外へまはした。農家のやうに家へ積んで置く愚もしなかつた。その使ひにはすみ子の良人の浩義を使つた。幾割かの謝礼を払へば、人は小気味よく働いてくれるものだと云ふ事もきんは知つてゐた。女中との二人住ひで、四間ばかりの家うちは、外見には淋しかつたのだけれども、きんは少しも淋しくもなかつたし、外出ぎらひであつてみれば、二人暮しを不自由とも思はなかつた。泥棒の要心には犬を飼ふ事よりも、戸締りを固くすると云ふ事を信用してゐて、何処の家よりもきんの家は戸締りがよかつた。女中は唖なので、どんな男が尋ねて来ても他人に聞かれる心配はない。その癖きんは、時々、むごたらしい殺され方をしさうな自分の運命を時々空想する時があつた。息を殺してひつそりと静まり返つた家と云ふものを不安に思はないでもない。きんは、朝から晩までラジオをかける事を忘れなかつた。きんはその頃、千葉の松戸で花壇をつくつてゐる男と知りあつてゐた。熱海の別荘を買つた人の弟だとかで、戦争中はハノイで貿易の商社を起してゐたのだけれども、終戦後引揚げて来て、兄の資本で松戸で花の栽培を始めた。年はまだ四十歳そこそこであつたが、頭髪がつるりと禿げて、年よりは老けてみえた。板谷清次と云つた。二三度家の事できんを尋ねて来たけれども、板谷は何時の間にかきんの処へ週に一度は尋ねて来るやうになつてゐた。板谷が来始めてから、きんの家は美しい花々の土産で賑はつた。――今日もカスタニアンと云ふ黄いろい薔薇がざくりと床の間の花瓶に差されてゐる。銀杏の葉、すこし零れてなつかしき、薔薇の園生の霜じめりかな。黄いろい薔薇は年増ざかりの美しさを思はせた。誰かの歌にある。霜じめりした朝の薔薇の匂ひが、つうんときんの胸に思ひ出を誘ふ。田部から電話がかゝつてみると、板谷よりも、きんは若い田部の方に惹かれてゐる事を悟る。広島では辛かつたけれども、あの頃の田部は軍人であつたし、あの荒々しい若さも今になれば無理もなかつた事だとつまされて嬉しい思ひ出である。激しい思ひ出ほど、時がたてば何となくなつかしいものだ。――田部が尋ねて来たのは五時を大分過ぎてからであつたが、大きな包みをさげて来た。包みの中から、ウイスキーや、ハムや、チーズなぞを出して、長火鉢の前にどつかと坐つた。もう昔の青年らしさはおもかげもない。灰色の格子の背広に、黒つぽいグリンのズボンをはいてゐるのは如何にも此時代の機械屋さんと云つた感じだつた。「相変らず綺麗だな」「さう、有難う、でも、もう駄目ね」「いや、うちの細君より色つぽい」「奥さまお若いンでせう?」「若くても、田舎者だよ」きんは、田部の銀の煙草ケースから一本煙草を抜いて火をつけて貰つた。女中がウイスキーのグラスと、さつきのハムやチーズを盛りあはせた皿を持つて来た。「いゝ娘だね……」田部がにやにや笑ひながら云つた。「えゝ、でも唖なのよ」ほゝうと言つた表情で、田部はぢいつと女中の姿をみつめてゐた。柔和な眼もとで、女中は丁寧に田部に頭をさげた。きんは、ふつと、気にもかけなかつた女中の若さが目障りになつた。「御円満なのでせう?」田部はぷうと煙を吹きながら、あゝ僕ンとこかいと云つた顔で、「もう来月子供が生れるンだ」と言つた。へえ、さうなのと、きんはウイスキーの瓶を持つて、田部のグラスにすゝめた。田部は美味さうにきゆうとグラスを空けて、自分もきんのグラスにウイスキーをついでやつた。「いゝ生活だな」「あら、どうして?」「外は嵐がごうごうと吹き荒さんでゐるのにさ、君ばかりは何時までたつても変らない……不思議な人だよ。どうせ、君の事だから、いゝパトロンがゐるンだらうけど、女はいゝな」「それ、皮肉ですか? でも、私、別に、田部さんに、そんな風な事云はれる程、貴方に御厄介かけたつて事ないわね
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