は大丈夫だったかしらと、何の錯覚からかそんな事まで考えたりした。
昔、わたしはこの町で随分貧しい暮らしをしていた。さまざまなものが生々と浮んで来る。その当時の苦痛がかえってはっきり心に写って来る。休止状態にあったみじめな生活が、海の上に浮んで来る。わたしは昔のおもい出で、窒息しそうに愉《たの》しかった。その愉しさは狂人みたいだった。Y襯衣《シャツ》の胸の釦《ボタン》をみんなはずして、大きな息をしたいほどな狂人じみた悲しさだった。明日は因《いん》の島《しま》へ行ってみようと思ったりした。
風呂から上ると、わたしは廊下を通る女中を呼びとめて、上等の蒲団《ふとん》へ寝かせて下さいと頼んだ。なりあがりものの素質をまるだしにしてしまって、だが、その気持ちは子供のような歓びなのだ。わたしは海ばかり見ていた。ちぬご、かわはぎ、かながしら、色々な魚が宙に浮んで来る。
夜になると宿屋の上をほととぎすが鳴いて通った。この町では晩春頃からほととぎすが鳴きに来た。学校の国文の教師や、女友達が遊びに来てくれた。子供を寝かしつけていて遅くなったと云う友達もあった。
*
翌日は早く起きて因の島行きの船へ乗った。風は寒かったがいい天気だった。船が町に添って進んでゆくので、わたしは甲板に出て町を見上げた。わたしの住んでいた二階が見える。円福寺と云う家具屋の看板が出ていた。わたしは亡くなった義父の棺桶《かんおけ》を見ているような気持ちだった。千光寺山には紅白の鯨幕《くじらまく》がちらほら見えた。因の島の三ツ庄へ行くのを西行きとまちがえてたくま[#「たくま」に傍点]と云う土地へ上った。船着場の酒屋で、歩いてどの位でしょうと訊くと、一里はあるだろうと云う返事なので、荷物が大変だと、船をしたてて貰って三ツ庄へ行った。小さい和舟の胴中に、モオタアをつけた木の葉のような船で、走り出すと、頬《ほお》がぶるぶるゆすぶれる。はぶ[#「はぶ」に傍点]の造船所の前を船が通っている。社宅が海へ向って並んでいる。初めて嫁入りをして行った家が見える。もう、あの男には子供が沢山出来ているのだろうと、ひらひらした赤いものを眼にとめて、わたしはそんなことを考えていた。
造船所の岬《みさき》の陰には、あさなぎ、ゆうなぎと書いた二そうの銀灰色の軍艦が修理に這入っていた。白い仕事服の水兵たちがせっせと船を洗ってい
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