寸、宿まで行つてみないか?」
嘉吉の憔悴した容子を見ると、なか子も厭とは云へなかつた。宿へ行くと、羽織のないなか子を、帳場の者達が、まるでつれ込みか何かのやうにじろじろ眺めてゐる。
部屋の中には、火のない歪んだ箱火鉢に、艶のない落書だらけの机がひとつ、その机のそばには嘉吉のトランクがきちんと寄せてあつた。二人とも、どこへ坐つていゝか判らなかつた。なか子は、わざと大きな音をたてゝ窓硝子をがらがらと開けて、その窓ぶちへ腰を降ろした。郊外行きの茶色の電車が眼の下を走つてゐる。
「あんた、こゝへ寝たの?」
「あゝ」
「随分がらがらした部屋だわね」
「商人宿だもの、こんなものさ‥‥」
立つたまゝ呆んやりしてゐた嘉吉も、なか子のそばへ寝転ぶと、
「酒でも呑みたいね」と云つて笑つた。
「あなた、随分髪が伸びてゝよ、床屋へ行つてらつしやいよ」
「あゝ、床屋も行きたいけど、こんな宿屋にゐて第一落ちつかないぢやないか」
「さうね、そこへ行くと、女つて何処へ行つても落ちつけるけど、男つて、こんなになつたらさうもゆかないでせうね」
嘉吉は、言葉つきまでよそよそしくなつたなか子の横顔を眺めながら、頬紅を
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