の眼の中へ流れ込んで来る。――嘉吉は次から次へと洋品店の前へ来ると足を止めた。いつそ、此足で神楽坂の家へ帰へつてみやうかと思つた。帰へれないまでも自分の家がどのやうになつてゐるのか、せめて遠くからでも眺めてみたいと思ふのであつたが、夜も更けかけてゐる。稲田屋旅館と云ふ商人宿の看板が眼に止まると、嘉吉はふらふらと硝子戸を肩で開けて這入つて行つた。――生涯に於て、嘉吉はこのみぢめさを始めで終りであるやうにと、山から出て来たばかりのやうな、耳朶の真黒い小女が茶を淹れて来ると、暫くは呆んやりとそんな事を祈つてゐた。淋しいと云ふことが、掌のやうなものならば、その痩せた手のやうなものが無数に嘉吉の周囲からつかみかゝつて来る。佗しくて仕方がなかつた。嘉吉は茶をひといきに飲み、二三丁とは離れてゐない処に、なか子が一文も持たないで他人に酌をしてゐる様子を考へると、熱海にもう一晩泊つて来たらよかつたと、愚にもつかぬ思ひごとをしたり、早くから床を敷かせると、嘉吉は女のやうに瞼を熱くするのであつた。言ふことも書くことも出来なかつたが、離れてみると、なか子へ対する愛情が滝のやうに溢ふれ、漂動してゐて、何かとらへ
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