りかへらないで、船板に小磯と書いてある縄のれんの家へ這入つて行つた。土間の客は女連れで、鍋物をつゝきながら酒を呑んでゐた。なか子が帳場へ這入つて行くと、赤ん坊に乳房をふくませてゐた神さんが、裏座敷の二畳の部屋へなか子を連れてゆき、「そこいらへ荷物を置いて、表へ出てゝ頂戴」と云つた。二階が二間ばかりあつて、茶碗を叩いて唄たつてゐる客達があつた。女中達は、二人ばかりで、どれも丸髷に結ひ、渋い滝縞のまがひお召か何かで、仲々、小料理屋の縄のれんと云つても馬鹿にはならなかつた。
 疲かれてはゐたが、なか子も地味な矢絣の錦紗に、無地羽二重の片側帯を締めてゐた。女中達は、まづなか子の着物や帯に眼をやり、「暇で困るのよ」と、何気なくこぼしてゐた。

 嘉吉はなか子が去つて行くと、つくづく旅行者のやうな気持ちで、古ぼけたトランクをもてあましながら、軒をひろつて、四谷の方へぶらぶらと歩いた。雨は一寸した驟雨で、泡沫が乾いてゆくと、撒水車の通つた後のやうに、埃くさい街の舗道が、水できらきら光つてゐた。――嘉吉は、洋品店の前で何度か立ちどまつた。鳥打帽子、ネクタイ、Y襯衣、パジヤマ、色々な品物が渦をなして嘉吉
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