り、これは、案外、本当のわかればなしになつてしまふかも知れないぞと、頭を畳へおとして眼を絞るやうに固くとぢてしまふ。
「一寸、何? 灯火がまぶしいの?」
「‥‥‥‥」
 嘉吉が、顰め面をして瞼をとじてゐるので、なか子が灯火でもまぶしいのだらうと嘉吉の顔の上の電気を、くたびれたやうな蚊帳の吊手で引つぱつて、灯火を部屋の隅の方へ持つて行つてやつた。さうして立ちあがつた序手に、鏡台の前に坐り、蜂蜜[#「蜂蜜」は底本では「蜂密」]を小指にすくつて荒れた唇につけてゐる。――ふたりにとつて、別に派手なおもひ出もなかつたが、三四年も一緒だと、三四年の間の汐のしぶきが、どぶんどぶんと打ちよせて来て、鏡を見ながら、なか子は自分がづぶ濡れになつたやうな寒さを感じた。だが、いまさら、現在のやうな生活を続けてゆかうとは思はなかつたし、薄情のやうだけれども、嘉吉の性格には最早、飽き飽きさせられてゐた。「わかれるにしても、昔のやうに何でも自由になる時ならば寝覚めもいいけれど、いまのやうな一文なしになつてしまつて、あんたに何もしてやれないじやあ、どうにも気色が悪い」とわかればなしが出ると、嘉吉はそんな人情家ぶつたこ
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