朝夕
林芙美子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)○《マル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+奏」、第3水準1−90−48]理《きめ》

×:伏せ字
(例)×××××を時雨のやうに味気ないものだとは
−−

 わかればなしが持ちあがるのも、すべてはゆきなり[#「ゆきなり」に傍点]の事だと、芯から声をあげて、嘉吉もなか子もあはあはあはと笑ひあつたのだが、嘉吉の心の中には、ゆきなり[#「ゆきなり」に傍点]とは云ひぢよう、ゆきなり[#「ゆきなり」に傍点]の事だと云ひきれないものがあつたし、なか子の心のうちには、これからひとり者になつてゆく淋しさを愉しんでゐるふうな、そんな吻つとしたところがあつた。で、ふたりが、いまさらゝしく声をたてゝ笑ひあふのも、これでおしまひだねと云つた風に、嘉吉は久須を引き寄せて、茶を淹れながら、ま、お前は気の軽い女だから俺ほどには思ふまいが、たよりだけは屡々くれるやうにと、二つの湯飲茶碗の糸底を、猫板の上にかつん、かつんと音をさせて並べた。
「まだ、あんたはそんなことを云つてゐるのね。わかれてしまふつて云つたところで、お互ひ、よくなつてゆけば、またかうして一緒になれるンですよ。あんまり※[#「月+奏」、第3水準1−90−48]理《きめ》のこまかいこと云ふもンぢやないわよ、悲しくなるぢやないの‥‥」
「ふゝん、悲しくなるか、だが、わかればなしを持ちだしたのはあんたぢやないか」
 なか子は黙つてゐた。切角気持ちよく、さつきはあんなにあはあは笑へたのに一寸拍子が逆になると、嘉吉の方が弱り出してしまふので、それが、なか子には余計に歯がゆく思へる。――嘉吉はそこへ寝そべつて、いまさらゝしく四囲を眺めてゐたが、風に吹かれてゐるやうな女の顔を見ると、これが四年も連れ添つてゐた女なのかと思ひ、額に浮んでゐる小皺のやうなものにも、まるで、手擦れのした道具のやうな愛惜を感じた。
「ま、何でもいゝさ、お互ひ躯を丈夫にしてるこつたよ」
「厭ね、まだ、本当に別れてしまつたつて云ふわけぢやなし、そんなこと云ふのおかしいわよ」
「‥‥‥‥」
 こんどは嘉吉の方がむつゝりと黙つてしまつて、女の心のなかに何とない余裕のあることを見てとり、これは、案外、本当のわかればなしになつてしまふかも知れないぞと、頭を畳へおとして眼を絞るやうに固くとぢてしまふ。
「一寸、何? 灯火がまぶしいの?」
「‥‥‥‥」
 嘉吉が、顰め面をして瞼をとじてゐるので、なか子が灯火でもまぶしいのだらうと嘉吉の顔の上の電気を、くたびれたやうな蚊帳の吊手で引つぱつて、灯火を部屋の隅の方へ持つて行つてやつた。さうして立ちあがつた序手に、鏡台の前に坐り、蜂蜜[#「蜂蜜」は底本では「蜂密」]を小指にすくつて荒れた唇につけてゐる。――ふたりにとつて、別に派手なおもひ出もなかつたが、三四年も一緒だと、三四年の間の汐のしぶきが、どぶんどぶんと打ちよせて来て、鏡を見ながら、なか子は自分がづぶ濡れになつたやうな寒さを感じた。だが、いまさら、現在のやうな生活を続けてゆかうとは思はなかつたし、薄情のやうだけれども、嘉吉の性格には最早、飽き飽きさせられてゐた。「わかれるにしても、昔のやうに何でも自由になる時ならば寝覚めもいいけれど、いまのやうな一文なしになつてしまつて、あんたに何もしてやれないじやあ、どうにも気色が悪い」とわかればなしが出ると、嘉吉はそんな人情家ぶつたことを云つて、なか子に後の句をつがせなかつたが、なか子にとつては、それは擽ぐつたい話で、嘉吉が華かであつたからと云つて、別に愉しい思ひをしたわけではなし、なか子にとつてはむしろ地味すぎる位な生活で、四年の間、こんな男の世話になつて、よくも煤けてゐられたものだと考へる。――昔のやうに何でも自由になつてゐたら、と、嘉吉はよく云ひ云ひするけれども、たかゞ一軒立ての洋品屋で、それも大した繁昌とは思はれなかつたし、先妻の亡くなつたぢき後へ這入つて行つたので、なか子のやうな派手な女にとつては、陰気な暮しむきに見えた。先妻の使つてゐた鏡台の前に坐つても、妙に白いお化けが覗きこんで来るやうで仕方がない。――そのお化けの名はつる[#「つる」に傍点]と云つた。嘉吉が三十二で、亡妻のつるが二十九の時に神楽坂の藁店に、いまの小さい洋品店を開いたのだが間口三間ばかりの、北向きの引つこんだ家で、日あたりが悪いせいか、なか子は始めての冬に神経痛で寝ついてしまつた。
 洋品店と云つても、学生相手の安物ばかりで、襯衣とか、靴下とかの小物類が売れてゆく位で、陳列の中の鳥打帽子や、絹ポプリンのY襯衣なぞは、四年の間そこへ飾り
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング