つぱなしで、いくら陽がさゝぬとは云つても埃つぽくなつてしまつて色褪せてゐる。
「おい、なか子、一寸来て御覧、うちの符牒を教へてあげるから‥‥」
 なか子が、嘉吉の家へ這入つて二日目であつた。早々と店を閉じてしまふと、レヂスターの横の卓子の上に、マフラアや、ハンカチや襯衣なぞの箱を並べて、うちの符牒は「つるまひおりたよしせ○《マル》」と云ふのだからよく覚えておくといゝと云つて、これはいくらだとか、これはどの位だとか、数理にはうといなか子へ「おる」は五二銭、「つま」は十三銭と早口に言つて応用させてみせるのであつた。
「此符牒は仕入れ値段の符牒だから、これから一割なり二割なり儲うけて云はなけりや駄目[#「駄目」は底本では「黙目」]だよ。先の奴は、何時でも符牒だと云ふことを忘れてしまふて、元々で売つてたことがあつたが、あはてゝ売らぬやうにしなきや駄目[#「駄目」は底本では「黙目」]だ」
 さう云つて、二三日は「つるまひおりたよしせ○」を、しつゝこい程、なか子へ尋づねてゐたが、なか子も、その符牒はあんまりひどいと云つて、もう、そんな符牒なんか面倒だと怒り出したことがあつた。なるほど考へてみれば、亡妻のつると、嘉吉の嘉の字を織りこんで、此符牒はあんまり芽出度すぎる。嘉吉は怒つてしまつて、むきにつんつんしてゐるなか子が、急に可愛くなつてしまつた。では、デパート並に、もう値段をちやんと入れておいてやらう、その方が買ふ方も売る方もさばさばしてよからうと、急にゴム印を買つて来て、符牒の上へ一々値段をくつゝけてくれた。だが、浮世ぐらしのやうななか子には、「はい、そのすてゝこは六十銭でございます」とか「その襯衣はゴム織の上等で、壱円二拾銭なら本当に高く戴いてないつもりでございます」なんぞ、芯から面倒で、第一、拾円札で壱円八拾九銭なぞと云ふ買物になると、一々奥の嘉吉へ「あなたやつて頂戴よ」と云つて走り込んで来た。始めの程は、嘉吉も笑つてゐたが、二年になつても三年になつても家の商売に馴れやうとはせずに、何時も家ぢゆうの陽のあたる処を見つけては、その陽溜りへ講談本なぞを展げてゐたり、夏になると、ひといちばい暑つがりやで、台所の板の間へ茣蓙を敷いて、まるで生魚のやうにごろんごろんとしてゐるのであつた。嘉吉も、これはひどい女を背負ひこんでしまつたものだと考へる時もあつたが、奇妙に、台所仕事が手綺麗で、何でもないやうな容子をしてゐて、案外膳の上には嘉吉の好きなお菜が一二品並び、商売のあつたやうな日なぞは、猫板の上に銚子が乗つてゐることもあつた。どつちかと云へば、嘉吉よりもなか子の方が仲々酒好きで、時々台所で冷酒をひつかけてゐるのを嘉吉は屡々とがめる事があつたが、「わたしは好きぢやないのよ、好きなのは腹の虫なンだから仕方がないわよ」と云つて、夜なぞ酔つたまぎれに寝床へ這入ると、きまつて、お化けだお化けだと唸つてみせた。――本当にお化けが出るのでもなければ、良心がとがめて、架空のお化けを感じて云ふと云ふのでもない。只酒を飲んで、「あゝいゝ気持ちだわ」と云ふことが、何となく亭主の前では憚ばかられて、口の先では、「お化けだよウ」と呶鳴り、心のうちでは牛の舌のやうな奴をべろんと出していゝ気持に、船底枕をごりごりゆすぶつて嘉吉を気味悪るがらせておくのであつた。嘉吉は嘉吉で、隣の寝床で「お化けだお化けだ」と云はれると、何となく、背中が冷たくなるのであつたが、こいつ、照れ隠くしかも知れぬと、云はせたいだけ云はせて森としてゐる。嘉吉が森としてゐると、なか子は「どうだ参いつたか」と、何時の間にか子供のやうに黙りこむのであつたが、今度はかへつて、亡くなつたお神さんと、毎晩こんな風に寝てゐたのだらうと、急に、背筋がぞくぞくしてしまつて、「起きてゝよ、ねえ」と云つて、嘉吉の枕を引つぱるのであつた。枕を引つぱられると、嘉吉も、そうそう寝た真以は出来ず、××××××で惰勢[#「惰勢」は底本では「楕勢」]に墜ちてしまふのであつたが、不思議に厭になつて来る女ではなかつた。寝物語りに他の男の事を考へてゐる時があるのよ、とまるで娼婦のやうなことを平気で云つたが、死んだ女房のやうに、とぼけて寝てしまふやうなことはしなかつたし、根が、小料理屋へ努めてゐた女なので、あけすけなのでもあらう、世の常の女房のやうに、×××××を時雨のやうに味気ないものだとは云はせないで、嘉吉に対して、まるでもう、野山でたわむれる獣か何かのやうなふるまひなのである。どこから、そのやうな力が湧いて来るのか、日中、嘉吉は襯衣箱や、鬼足袋の上にはたきをあてながら、不図、そんなことを凝つと考へてゐる折があつた。

 なか子が家へ入りこんで二年目位から、店のなかは砂が乾いてしまつたやうに品物が一つならべの状態で、ハンカチも半ダースと同じも
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