のを注文されると、ていさいの悪い断りやうをしなければならない程、品物がどうも手薄になつてしまつて、嘉吉の立居ふるまひにどう云ふものか活気がなくなつてゐた。――根からの小商人で、此様な店を出したのも、誰からも助けを受けたわけではなく、云へば、自分一人で造つた身代故、品物が手薄になつた処で誰もとがめる者はなかつたが、それだけに、嘉吉もなか子も、何となく、行末の短じかさを感じるのであつた。
「ねえ、私、もう一度前のお店へ行つて働いてみませうか?」
 何かしら、自分が働きさへすれば、金はすぐ、その日からでも転びこんで来るやうに、何となく昔の水商売をなつかしく考へ、折があつたら、もういちど、女中働きにでも出てみやうかと、風呂屋の帰へりや、八百屋の帰へりなぞに、なか子はそれとなく、お座敷女中入用の広告を見てまはることがあつた。
「莫迦なことを云つちやいけない。自分の年齢を考へて御覧よ。女も二十二三までだよ、そんな処で働くのは‥‥もう二十七八にもなつて、まだ娘みたいな気でゐるのかい?」
 さう云はれると、「どうせ、娘みたいなもンよ、私はまだ子供を生んでないンですもの」と口返答をして、無理には云はないよと云つた太々しさで、一日一日が過ぎるのであつた。――だが、二人が顔をつきあはせると何と云ふこともなくすぐわかればなしになつてしまつて、そのわかれ話が、夜更けまで持ちこしになると、たちまち、明日の日は、どこの家よりも店開きが遅くれてしまつて、小さな商ひを逃がす事が度々であつた。
 なか子が嘉吉と連れ添つて三年目の夏の初めには、たうとう一台ある自転車にまで手をつけ、売り払つてしまふと、店のなかはひねもの[#「ひねもの」に傍点]屋の陳列場みたいに、がらんとしてしまつて、メリヤスの空箱ばかりが、整然と並べられて、それが、また、妙に、此洋品店の左前を物語つてゐた。
 嘉吉は気の小さい男のくせに、意地つ張りで、なか子を家に入れた頃は、その意地つ張りも持ちこたへてゐたが、なか子のやうな女を背負ひこむと、前の女房ではどうやら持ちこたへてゐた商ひが、たちまち、一文商売のやうにつまらなく思へて来て、不図、相場と云ふものに手を出して見たりした。その相場も沢山な資本がないところから、みすみす悪い合百《がふびやく》師にひつかゝつて、すつてんてんになつたり、競馬にも凝り出したが、終ひには、新聞に出てゐる高利の金さへも当つてみやうと、眼を皿のやうにして、小さい金融会社を、あつちこつちと探がしてみるのであつた。あせればあせつてゆく程、砂地がずりさがつて行くやうに、何も彼も風にもつてゆかれて家の中ががらんとなつて行く。――店の中へ何も並べるものがなくなると、浅草あたりの化粧品問屋から、安いポマードや水白粉のやうなものを仕入れて来て、一つならべに陳列に出しておいたが、結局そんなことは、嘉吉のみえのやうなもので、家賃も一ヶ年あまりもとゞこほり、しまひには家主のお神さんが店の先きで泣いてしまふほどの詰りやうでどうにも首がまはらなくなつてしまつたのである。

 唇に蜂蜜を塗り、舌の先きで丁寧に嘗めまはしてゐたなか子は思ひ出したやうに立ちあがると、押入れから褞袍を出して嘉吉の裾へかけてやつた。嘉吉は、もう、女からわかればなしを持ちかけられるやうでは、男も下の下だわいと、瞼を閉じたまゝ不吉なことばかりを、あれこれと考へ耽けつてゐた。
「だつて、さつきの話ね、二人ともさばさばしてるンぢやないのさ、こんな店なんて未練なンか持たない方がいゝわ。第一、ハンカチ一つ買ふんだつて、デパートで買ひたがるンですもの、しかも、こんな小さな店なんか、こゝ二三千円がとこ、誰かがくれたつてどうにもたつてゆきやアしませんよね」
「そりやアさうさ。かう、百貨店がによきによき出来たり、少しばかりたつぷりした資本でもつて、マアケツトみたいなものをやられたンぢや、誰だつて、こんな陰気な店なんかふりむいちやくれないよ――時世が変はつてしまつたのだし、こゝ二三千円、誰かくれたとした処で、俺はこんな商売はもう止めだ」
「ぢや、何をするの?」
「何をするつて、先きだつものは金だよ、何をするにしたつて、何とか資本がなくちや、どうにも仕様がないさ‥‥」
「ねえ」
「うん‥‥」
「いつたい、雑作だのがらくたを仕末してどの位出来る?」
「雑作なんて、家主に家賃のかた[#「かた」に傍点]だぜ、がらくた売つた処が二束三文で、せいぜい一晩泊りで、近かくの温泉へ行ける位のもんだらう‥‥」
「温泉か、温泉もいゝわね。桜もそろそろ咲きかけてるのに、厭ね、私たち‥‥」
 なか子は五六年前、観桜会とかで足が痺れる程、一日立ちづめで働いた料理屋の生活を思ひ出してゐた。嘉吉は嘉吉で戸外の寒いやうな風の音をきくと、酒でものみたいやうな気持ちになるのであつた。

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