もして来る。
嘉吉の前ではどうしてもつけてみる気がしかなかつたが、百貨店でそつとしのばせて来た頬紅も、電気の下でみると案外派手な色であつたので、なか子は、舌打ちしたいやうな気持ちで、あゝ私はいつたいどうなるのだらうと、横になつてゐても眼がさえざえして眠ることも出来なかつた。
その翌日の夕方、嘉吉がインバネスもトランクも持たないで尋づねて来た。なか子はうれしかつたが、わざとふくれた顔をして看板屋の軒下へ嘉吉をひつぱつて行つた。
「どう、勤まりさうかい?」
「あんまりいゝところぢやないわ‥‥」
「さうだろうね‥‥」
「昨夜、どこで泊つたの?」
「昨夜か、昨夜は、ついそこの商人宿へ泊つたさ」
「さう、藁店へは帰へつてみなかつた?」
「莫迦だな、帰へれやしないぢやないか、下手アまごつくと飛んだ目に逢ふよ」
「何か判断がついた?」
「あゝ別にいゝ判断もつかないが、今朝は浅草へ一寸行つて来たンだがね、化粧品の夜店をするンだつたら、委託販売でもつて、少々の品物は借してやらうつて処があるンだが、どうだらうと思つてさ‥‥」
四年の間に、何十度となく別れ話しが持ちあがつてゐながら、いざ、ちりぢりに別かれてしまふと、お互ひの一文なしがさせるわざなのか、年齢から来る未練なのか、やつぱり、肩を寄せてゐると、嘉吉もなか子も淋しいながらもお互ひの心が温まつて行つた。
「夜店?」
「あゝ、どう考へる?」
「さうね、夜店もいゝけど、此頃ぢやア、百貨店も出来てるンだし、ひところみたいぢやないわね。人足も早くなつたし、――でどんなものなの、やつてみると云ふのは?」
「品物かい?」
「えゝ」
「レモン化粧水とか、艶出し油とか、肌色白粉とか、何だかそンなものだけど、元価が一本平均つお[#「つお」に傍点]位なンだから、まお[#「まお」に傍点]位に売つて御覧、日に二十本出てくれると四円は大丈夫ぢやないか、え?」
「だけど、そりやア話ですよ。土地にもよるけど、かへつて田舎まはりして、何々百貨店の見切品とか何とかした方が効果はあるわね、東京で夜店なんて、素人の私だつて駄目なこつたと思ふわ」
「うん、ま、夜店も思はしくないとは思ふが、いまのところ、田舎まはりの旅費だつて大儀だからね」
「だつて、東京で夜店出すにしたつて、雨風のこと考へないぢや黙目よ。日に四円だつて、丸々百弐拾円儲けられたら、夜店商人が首を吊りましたなんて話もないはづよ。ね、もうこれから梅雨季にでもなつて御覧なさい、それこそ干上つちやうぢやないの」
「ま、さう、むきになつて云はなくつてもいゝよ。まだ商売はこれからなンだから、――ところで、文房具はどうだらうね?」
「さうね、化粧品より文房具の方がいゝかも知れないわ?」
二人は看板屋の軒から、何時か歩き始めてゐた。嘉吉もなか子も、夜店の話にすつかり興奮してしまつてゐる。あなたと云ふひとは、私がゐないぢや何も出来ないひとなのねと、なか子は、時々嘉吉にあきれて見せながら、「景気が悪くなつて別れたンぢや気色が悪いつてあんたが云ふけど、こんなにとことんまで来ると今度は私の方が気の毒で見ちやゐられない」歩きながら、なか子があゝと溜息をつくのであつた。――嘉吉は、自分が生きてゐるのか、それともぶらぶら足だけが歩いてゐるのか、今では自分で自分の体工合が判らなくなつてゐた。夜店を出すとは云つたものゝ元手なしの委託販売でもなかつた。拾円ばかりの保証金をおさめてさへおけば、その金高より一寸出た位の品物を借してくれると云ふだけで、嘉吉の云ふ、日に四円の儲けは、嘉吉の描いたお伽話なのであらう。
「一寸、宿まで行つてみないか?」
嘉吉の憔悴した容子を見ると、なか子も厭とは云へなかつた。宿へ行くと、羽織のないなか子を、帳場の者達が、まるでつれ込みか何かのやうにじろじろ眺めてゐる。
部屋の中には、火のない歪んだ箱火鉢に、艶のない落書だらけの机がひとつ、その机のそばには嘉吉のトランクがきちんと寄せてあつた。二人とも、どこへ坐つていゝか判らなかつた。なか子は、わざと大きな音をたてゝ窓硝子をがらがらと開けて、その窓ぶちへ腰を降ろした。郊外行きの茶色の電車が眼の下を走つてゐる。
「あんた、こゝへ寝たの?」
「あゝ」
「随分がらがらした部屋だわね」
「商人宿だもの、こんなものさ‥‥」
立つたまゝ呆んやりしてゐた嘉吉も、なか子のそばへ寝転ぶと、
「酒でも呑みたいね」と云つて笑つた。
「あなた、随分髪が伸びてゝよ、床屋へ行つてらつしやいよ」
「あゝ、床屋も行きたいけど、こんな宿屋にゐて第一落ちつかないぢやないか」
「さうね、そこへ行くと、女つて何処へ行つても落ちつけるけど、男つて、こんなになつたらさうもゆかないでせうね」
嘉吉は、言葉つきまでよそよそしくなつたなか子の横顔を眺めながら、頬紅を
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