ましたなんて話もないはづよ。ね、もうこれから梅雨季にでもなつて御覧なさい、それこそ干上つちやうぢやないの」
「ま、さう、むきになつて云はなくつてもいゝよ。まだ商売はこれからなンだから、――ところで、文房具はどうだらうね?」
「さうね、化粧品より文房具の方がいゝかも知れないわ?」
二人は看板屋の軒から、何時か歩き始めてゐた。嘉吉もなか子も、夜店の話にすつかり興奮してしまつてゐる。あなたと云ふひとは、私がゐないぢや何も出来ないひとなのねと、なか子は、時々嘉吉にあきれて見せながら、「景気が悪くなつて別れたンぢや気色が悪いつてあんたが云ふけど、こんなにとことんまで来ると今度は私の方が気の毒で見ちやゐられない」歩きながら、なか子があゝと溜息をつくのであつた。――嘉吉は、自分が生きてゐるのか、それともぶらぶら足だけが歩いてゐるのか、今では自分で自分の体工合が判らなくなつてゐた。夜店を出すとは云つたものゝ元手なしの委託販売でもなかつた。拾円ばかりの保証金をおさめてさへおけば、その金高より一寸出た位の品物を借してくれると云ふだけで、嘉吉の云ふ、日に四円の儲けは、嘉吉の描いたお伽話なのであらう。
「一寸、宿まで行つてみないか?」
嘉吉の憔悴した容子を見ると、なか子も厭とは云へなかつた。宿へ行くと、羽織のないなか子を、帳場の者達が、まるでつれ込みか何かのやうにじろじろ眺めてゐる。
部屋の中には、火のない歪んだ箱火鉢に、艶のない落書だらけの机がひとつ、その机のそばには嘉吉のトランクがきちんと寄せてあつた。二人とも、どこへ坐つていゝか判らなかつた。なか子は、わざと大きな音をたてゝ窓硝子をがらがらと開けて、その窓ぶちへ腰を降ろした。郊外行きの茶色の電車が眼の下を走つてゐる。
「あんた、こゝへ寝たの?」
「あゝ」
「随分がらがらした部屋だわね」
「商人宿だもの、こんなものさ‥‥」
立つたまゝ呆んやりしてゐた嘉吉も、なか子のそばへ寝転ぶと、
「酒でも呑みたいね」と云つて笑つた。
「あなた、随分髪が伸びてゝよ、床屋へ行つてらつしやいよ」
「あゝ、床屋も行きたいけど、こんな宿屋にゐて第一落ちつかないぢやないか」
「さうね、そこへ行くと、女つて何処へ行つても落ちつけるけど、男つて、こんなになつたらさうもゆかないでせうね」
嘉吉は、言葉つきまでよそよそしくなつたなか子の横顔を眺めながら、頬紅を
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